賀曽利食文化研究所(3)甲州編
『ツーリングGO!GO!』(三栄発行)2002年10月号所収
序論
地球の両極点、北極点と南極点にバイクで到達したアドベンチャーライダーの風間深志さんと雑誌で対談したとき、バイク談義はそっちのけでカソリ&カザマ、「ほうとう談義」で盛り上がった。
甲州生まれ、甲州育ちの風間さんは生粋の甲州人。
ぼくはそんな風間さんの持つ風土の匂い、甲州人気質が大好きだ。2人でチームを組み、2台のDR500で「第4回・パリダカールラリー」(1982年)に参戦したときは、けっこう本気で「甲州魂」とか「風林火山」の旗をなびかせて走ろうか、と話した。
そんなカソリ&カザマの対談で、
「ほうとう、ほうとう」
と、ぼくが何度も「ほうとう」というと、
「カソリさんねえ、甲州ではおほうとうと、“お”をつけるんですよ」
といわれてしまった。
おほうとう、この言葉は甲州でのほうとうの地位を如実に物語っている。
甲州人にとってほうとうはうどんを1杯すするといった間食程度のものではなく、夕食で食べられる、いわば主食のようなものなのだ。
それだけ大事なほうとうなので、飯に御をつけて「ご飯」というように、「おほうとう」といっている。
ということで、「ほうとう」を通して甲州を見たくなり、東京から国道20号(甲州街道)を西へ。大月まで行ってほうとうを食べることにした。
調査
旅の基本は、まずは「高いところに登れ!」である。
大月に着くとすぐに町を見下ろす岩殿山に登った。ここは修験の山だ。
9世紀末には天台宗の開通寺が創建され、三重塔や観音堂、僧坊などの立ち並ぶ甲州東部の山岳宗教の拠点になり、山麓には繁華な門前町が形成された。だが、今では開通寺跡が残されているだけである。
16世紀になると、武田24将の1人、小山田信茂がこの要害の地に戦国時代特有の山城を築き、武田氏の相模や武蔵への備えとなった。1時間ほどかけて山頂に登ると、そこからは足元に広がる大月の街並みを一望する。
大月の小盆地は山々に囲まれ、その向こうに富士山が見えている。ここからの富士山の眺めは大月の「秀麗富嶽十二景」のひとつになっている。
岩殿山を下ると、甲州街道沿いにある郷土料理店の「竹馬」でほうとうを食べた。
鉄鍋に入って出てきたほうとうは、味噌仕立ての煮込みうどん。幅広に打った麺には、シコシコッとした腰がある。それにネギやニンジン、インゲン、青菜、ジャガイモ、キノコ、油揚といった具がどっさり入っている。それとカボチャだ。
カボチャの甘味が汁に溶け、何ともいえない味を出している。甲州人がよくいうところの「うまいもんだよ、カボャのほうとうは!」が、実感として感じられた。
店の中には、ほうとうの由来が次のように書かれていた。
「ほうとうは、味噌煮込みうどんのことである。昔、武田信玄公が戦いのおり、携帯の干飯(ほしいい)だけでは将兵の体力が持続できないので、中国の禅僧より、活力のつくほうとうの作り方を伝授され、野戦食とした。それが一般化した」
今でも甲州人の胸の中に脈々と生きつづける武田信玄は「信玄公」と呼ばれているが、この説明はすべてのことを武田信玄にむすびつけたくなる甲州らしいものだ。
ほうとうはもともとは、よくこねた小麦粉の塊をちぎっては鍋に入れる団子汁。日本のウドンの原型である。
ウドンは漢字では饂飩と書くが、平安時代、もしくはそれ以前に中国から伝わった。その時点では小麦粉で皮をつくり、その中に具を入れたワンタン風のものだった。その北京語発音が「フォントン」、広東語発音が「ワンタン」になる。
大分の「ほうちょう汁」、埼玉の「にぼと」、栃木や宮城の「はっと汁」などはすべて山梨の「ほうとう」の類だが、これらの同類語は饂飩の北京語発音の「フォントン」から来ている可能性がきわめて高いとぼくは思っている。
「インドシナ一周」(1992年〜1993年)のとき、古い中国文化が残るマレーシアのペナン島のチャイナタウンを歩いた。そこで「雲呑麺」の看板を掲げた店を発見。ウドンが食べられると喜んだが、その店に入り、雲呑麺を頼むとコーヒーつきのワンタンが出てきた。「雲呑麺」はワンタンのことだった。
日本に伝わった「饂飩」もウドンではなく、最初はワンタンだった。我々日本人はそれが日本に伝わったてからというもの、「ウドン」と「ワンタン」を混同させてしまった。そして1000年以上たった今でも混同させたままでいる。ウドンもワンタンも日本では、漢字で書くと饂飩になる。
結論
大月の岩殿山の山頂に立ち、まわりを山々で囲まれた市街地を一望したとき、
「おー、これぞ、山峡(やまかい)!」
と、カソリ、思わず叫んだ。
その風景は山峡そのものであった。
現在の山梨県は旧国の甲斐(甲州)一国がそのまま県になっている。
一国一県だ。
甲斐は「山峡」から来ているといわれるが、今でも峡北、峡南、峡東、峡西と呼ぶ地域名に「山峡」が残っている。
岩殿山の山頂から山峡の風景を見たとき、甲州が米作ではなく、麦作の国であることが、一目で実感できた。
山峡に水田をつくるような広さはない。山の斜面の傾斜畑で小麦や大麦をつくり、小麦は粉にしてほうとうにし、大麦は麦飯や麦粥にして食べた。
麦こそ甲州を支える作物だった。
岩殿山からの風景はそんな甲州の食文化が見てとれる。ほうとうはその象徴で、甲州の麦作文化を今に伝えるものなのである。
甲州では「おほうとう」というといったが、麦粥も御をつけ、「麦」を「ばく」読みにして、「おばく」といっている。
日本で今のようなこねた小麦粉の塊をのし棒でのし、包丁で切り、ゆであげたうどんを食べるようになったのは、近世以降のことだといわれている。
それ以前は山梨の「ほうとう」や先にあげた大分の「ほうちょう汁」、埼玉の「にぼと」、栃木や宮城などの「はっと汁」、群馬の「おきりこみ」、熊本の「団子汁(だごじる)」などの煮込みうどん的な食べ方が一般的だった。
甲州のほうとうを食べながら、世界の麺食文化に思いを馳せた。
甲州のほうとうは甲州独自のものではなく、世界の麺食文化の大きな流れの中にある。
小麦を粉(粉食)にし、それを麺や饅頭にして食べる食文化圏の中心は中国の華北だ。
さー、甲州から華北へ。
大月での結論は「麺を追って世界に飛び出せ!」ということで、華北の「麺ルート」を走り、麺を食べ歩いた。
何度か「饂飩」の看板を掲げた店にも入ったが、そこで出たのはウドンではなくワンタンだ。中国ではワンタンも麺に含まれる。