伝説の浮谷東次郎[1]

『がむしゃら1500キロ』を持って大阪へ向かう

 伝説の浮谷東次郎の『がむしゃら1500キロ』(筑摩書房)の文庫本を持って、東海道を走った。それは1996年のことで、『月刊旅』(JTB)の取材を兼ねての50ccバイクでの旅だった。

ちくま文庫
『がむしゃら1500キロ』

 2月28日午前4時、JR総武本線の市川駅前に、スズキ・ハスラー50とともに立った。バスや車、人波で混雑する市川駅前も、夜明け前は、ひっそりと静まり返っていた。

 自販機の缶コーヒーを飲み、ひと息入れ、4時15分になったところでハスラー50のエンジンをかける。

「さー、行くゾ!」

 と気合を入れ、2サイクルのエンジン音を残し、都内に向かって走り始めた。

 1957年7月31日、当時15歳の浮谷東次郎は、同時刻の午前4時15分に、ドイツ製50ccバイクのクライドラーにまたがり、千葉県市川市の自宅を出発。東京から東海道を一路、西へ、大阪に向かって走った。

 浮谷東次郎といえば、後に、すい星のごとくに現れた「天才レーサー」としてよく知られているが、23歳の若さで鈴鹿サーキットに散った。あまりにも惜しい死だった。

 その彼が15歳のときに旅立ったのが、50㏄バイクでの東海道往復だ。

 それが『がむしゃら1500キロ』という本になった。我らツーリングライダーにとっては、古典といっていい本なのである。

 この本には、みずみずしい感性、旅人としての素養のすばらしさ、若者だけが持ちえる向こうっ気の強さ、自分自身を見つめ直そうとする人生へのひたむきさ、旅の途中で目にする風物や出会ったいろいろな人たちの描写と、一気に読ませるものがちりばめられている。さらに当時の東海道の状況もよくわかる。

『がむしゃら1500キロ』の文庫本を持って、浮谷東次郎の足跡を追って東海道を往復しようと市川までやってきたのだが、名作を手にその舞台をまわるのは、すごくいい旅の方法だ。芭蕉の『奥の細道』の文庫本を手にして旅するときのような、何ともいえない胸のワクワク感をおぼえる。

 市川から千葉街道の国道14号で東京・日本橋へ。そこからは東海道(国道1号)で大阪に向かった。

東京・日本橋の道路元標

 浮谷東次郎の『がむしゃら1500キロ』を縦糸に、カソリなりの東海道へのこだわりを横糸にして、東海道往復の旅を織り上げていこうと思うのだ。

 東京・日本橋から小田原までは、ただ、ひたすらに走った。浮谷東次郎は午前4時15分に市川を出発すると、小田原までの120キロ弱を3時間で走っている。そして小田原に着くと、行きつけのドライブインでサンドイッチの朝食を食べている。

 カソリの小田原到着は7時20分。市川から本気で走り、3時間5分かかった。恐るべし、15歳の浮谷東次郎。彼は速かった!

 現在では国道1号沿いに早朝から開いているドライブインはないので、小田原駅近くの「ミスタードーナツ」でドーナツを2個買った。それを持って小田原城に行き、缶入り紅茶を飲みながら、ドーナツを食べた。

 ここで浮谷東次郎と賀曽利隆を比較してみた。

 当時、50㏄バイクの免許(許可証)は14歳で取ることができた。市川に代々つづく名家に生まれた浮谷東次郎は、14歳になるとすぐに免許を取り、お父さんにクライドラーの新車を買ってもらった。1台8万5000円。大学出の初任給が1万円にも満たない時代である。お父さんが大の車好きということもあったが、それは経済的に恵まれていた浮谷家だからこそできたといっていい。

 浮谷東次郎はクライドラーを手に入れるとすぐに、軽井沢まで、走りに行っている。さらに、箱根までは何度となく走っている。そして、中学3年の夏休みに大阪行きを思いついたのだ。このあたりはなんともすごいではないか。

 浮谷東次郎よりも5つ年下になるカソリは、14歳で免許を取ろうと、14の誕生日が来る日を心待ちにしていた。ところが14になる直前に制度が変わり、免許は16にならないと取れなくなってしまった。

 あのときの落胆ぶりは、今でもはっきりと覚えている。それと同時に、国のやることは絶対に信用できないといった、権力への強い不信感もそのときに芽生えた。

 それでカソリはどうしたかというと、16歳(高校1年)になるのと同時にバイクの免許を取り、小遣いを貯めた5000円を持って東京・上野のバイク屋街に行き、ブリジストンのチャンピオンという中古の50ccバイクを買った。

 初めてのツーリングは伊豆。ほんとうは伊豆半島を一周したかったのだが、東京から伊東まで行き、また東京に戻ってくるので精一杯だった。

 浮谷東次郎のように大阪まで行くことなど、およびもつかなかった。

 カソリがその後、バイクで大阪まで行けたのは、19歳になってからのことだった。