宮本先生への追悼文「宮本先生の笑顔」
偉大なる民俗学者の宮本常一先生は1981年1月30日にお亡くなりになりました。73歳でした。ぼくは宮本先生の作られた日本観光文化研究所(観文研)の所員だったのです。宮本先生が亡くなられてから3ヵ月後の5月1日には、日本観光文化研究所刊の『宮本常一 同時代の証言』が完成しました。それには全部で258人の方々の宮本先生への追悼文がのっています。583ページから成る大著の「宮本常一追悼文集」なのです。
ぼくは「宮本先生の笑顔」と題して、次のような追悼文を書きました。
宮本先生が亡くなられてから、早くも3ヵ月が過ぎようとしている。その間、先生を思い浮かべるたびに、怒られた顔や厳しい顔よりも、笑顔ばかりが目に浮かんでくる。先生は笑われるときは、ほんとうにやさしいお顔をされる。
先生の笑顔のなかでも、とくにぼく自身の結婚式の時の笑顔が、強く印象に残っている。
1975年3月16日はぼくの結婚式の日。前年の11月に1年半あまりの「六大陸周遊」の旅から帰ったばかりで、無一文のカソリ。おまけに結婚する以前から妻とはアフリカを旅する計画を練っていた。それだから結婚式はおこなわずに、どこか、奥飛騨あたりにでも新婚旅行を兼ねて行き、山の神社に手を合わせ、それですませようと話していた。
ところが、そのようなプランを周囲は許してくれず、結婚式をおこなわなくてはならないようなはめにおちいった。
困りはてて、宮本先生のご子息の宮本千晴さんに相談した。すると宮本千晴さんが結婚式をプロデュースし、宮本先生ご夫妻が仲人をしてくださることになった。
神主は神崎宣武さん、写真は須藤功さんと伊藤幸司さん、司会は青柳正一さん、料理は広瀬信子さん、山田まり子さん、佐々木真紀子さん、赤井由美子さんらの女性陣、結婚式の会場には保育園を借りたのだが、その飾りつけは工藤員巧さんと、日本観光文化研究所のメンバー一同が、まるで我がことのようにやってくれたのだ。そのおかげで、会場を借りた1万円だけで結婚式を上げられた。
式のさなか、神崎さんが祝詞をあげている時、
「いしやき〜いも〜」
と、焼き芋売りのスピーカーの声が飛び込んできた。そのとき宮本先生は、懸命になって笑いをこらえておられた。お孫さんの洋君が、かわいらしいお祝いの言葉を述べてくれた時には、宮本先生は微笑んでおられた。
形どおりの式が終わると、宮本先生はプレゼントしてくださったケーキに、ご自分でナイフを入れられた。そのあとは飲めや歌えの酒宴に変わった。先生はにぎやかな、みんながワーッとやるような場がお好きだ。ふだんはアルコール類は飲まれないが、この日は特別だからといって、ぼくのついだビールを飲まれた。
酒宴も最高潮に達すると、宮本先生は渋い声で花祭りの神楽の歌を歌ってくださった。
姫田忠義さん、伊藤碩男さん、須藤功さんが稗搗節をユーモラスな踊りをまじえて歌われた時は、宮本先生はおなかをかかえて、笑いころげておられた。
昼過ぎに始まった結婚式は延々と夜遅くまでつづき、ぼくは腰が抜けるほど飲んだので、足がふらついた。宮本先生は満面の笑顔で、そんなぼくと何度も握手をかわして見送ってくださったのだ。
それから2年後、ぼくたち夫婦はアフリカに旅立った。生後10ヵ月の赤ん坊も一緒だ。出発前には宮本先生のご自宅を訪ねたが、
「もう、これでしばらくは食べられないだろうから」
と、たくさんの鮨を用意して待っていてくださった。
赤ん坊の優子は人一倍、人見知りの激しい子だったが、先生に抱かれると泣きもせず、うれしそうにしていた。先生はそれ以上にうれしそうだった。
それを見て奥様は、
「(宮本先生は)昔から子供をあやすの上手でした」
と言われた。
長い厳しい旅に赤ん坊を連れていくということで、ずいぶんとまわりからは反対されたが、宮本先生は違っていた。
「日本と同じようにヨーロッパにも、アフリカにも、アジアにも、どこにだって子供はいる。そこで生まれ、大きく育っているのだから、そう心配することはない。子供のペースに合わせて旅することだよ」
といって励ましてくださった。
宮本先生のその時のお言葉は、今でもぼくの胸に焼きついている。
賀曽利隆