30回目 2025年3月10日
「希望のかけ橋」だったけれど
気仙沼から国道45号で岩手県に入り、気仙川を渡って陸前高田に到着。道の駅「高田松原」の「東日本大震災津波伝承館」を見学する。
今回の大津波で陸前高田の中心街は全滅した。それのみならず高田松原の7万本あまりの松も根こそぎ倒された。堤防も破壊された。ここではすさまじいばかりの大津波の破壊力を目の当たりにした。
震災後、陸前高田に行くのは大変なことだった。気仙川にかかる国道45号の気仙大橋は落下したので、そのため気仙川沿いに大きく迂回しなくてはならなかったからだ。
JR大船渡線の陸前矢作駅まで行ったが、大津波はその近くまで到達した。広田湾の海岸から7、8キロという信じられないほどの広大なエリアが大津波に飲み込まれた。
国道343号→国道340号で陸前高田の町跡に入っていったが、国道の信号はすべて消え、岩手県警のみならず栃木県警や千葉県警、福井県警…のパトカーが出て交通整理をしていた。
大津波によって破壊された陸前高田の光景には、もう言葉もなかった。
ここでは2000人以上もの死者・行方不明者を出したが、日本の災害史上でも空前絶後の惨状。「ここまでやられてしまうものなのか…」とその惨状を目にして思った。
大迂回をしてやっと国道45号に出た。そして1軒だけポツンと残った高層の「キャピタルホテル」の前でバイクを止めたが、1階を突き破った大津波のすさまじさには声もなかった。国道45号沿いの5階建の高層住宅は4階まで被災した。
「日本三大松原」に次ぐような高田松原は消え、三陸海岸有数の海水浴場も消えた。陸前高田の地図が変わってしまったのだ。
震災後の陸前高田の復興は遅々として進まなかったが、震災から3年後には大きな動きがあった。気仙川をまたいで対岸の山から市内へ延びる巨大なベルトコンベアが完成したのだ。
「希望のかけ橋」と呼ばれた土石運搬の2キロあまりのコンベアで、ダンプカーだと10年以上かかる盛土の工事が2年くらいに短縮できるといわれた。陸前高田の未来におおいなる期待をいだかせた「希望のかけ橋」だったが、盛土工事は終わっても国道45号沿いに賑わいは戻らなかった。今の陸前高田は盛土の終わった荒野の向こうに、再建された小さな町並みがポツンと見えるだけだ。
大震災前 2010年6月6日

大震災直後 2011年5月19日
大震災後 2014年3月14日
