日向山地の猪狩りと祭り(1)
1986年
九州山地の奥深くに位置する宮崎県の米良(めら)は、かつては椎葉や五家荘とともに、「九州の三大秘境」といわれたほどの山村だ。
米良は東米良と西米良に分かれる。東米良は西都市の一部になっているが、西米良は西米良村として一村を成している。
東米良の銀鏡(しろみ)に12月(1986年)に行った。標高1021メートルの竜房山の山麓に広がる集落。ここの銀鏡神社では毎年12月14日に例大祭の前夜祭として、夜を徹して神楽が演じられる。国の重要無形文化財にも指定されている銀鏡神楽を見に行ったのだ。
銀鏡神楽は33番の舞いから成っているが、神楽の始まる前には神籬(ひもろぎ)の下に祭壇を設け、御贄(おにえ)として猪の頭が供えられる。
米良では古くから猪猟が盛んにおこなわれてきたが、カリンド(狩人)と呼ばれる猟師たちはこの日のためにこぞって山に入り、猪狩りをする。ここでは猪のことを「シシ」、「猪狩り」のことを「シシガリ」といっている。
年によって供えられる猪の頭数は違うが、今年(1986年)は10頭、供えられている。10頭もの猪の頭がずらりと並んでいる光景は、この山里と猪のかかわりの深さをうかがわせるものだった。
銀鏡神楽の中でもきわめて興味深いのは、32番の「シシトギリ」である。
1番から31番までの神楽が夜通しで演じられたあと、15日の昼ごろから32番のシシトギリは始まった。
遥拝殿前に柴を敷きつめたモリ(狩りの山)の中に、柴を結びつけたまな板を隠して置き、それを猪に見立てる。
モリには狩衣(かりぎぬ)に烏帽子(えぼし)という格好で、手には幣(ぬさ)と麻の緒を結びつけた榊の枝を持った狩行司が立っている。狩行司というのは、猪狩の指導的な立場の人である。
そこにカリンドの爺と婆がやってくる。
爺は狩行司に、
「行司殿、今日はオニエの狩りのヤービ(合火)の狩りでまかりいで申した」
と挨拶し、オニエの狩りなので絶対に猪をとり逃がしてはいけないといった話をする。
ヤービというのは火打石の火によって決める狩りの日のことで、たとえば火打石を打って火花が3つ飛べば打ち合わせの日から3日目、4つ飛べば4日目とした。
そのあとで爺はモリを歩きまわり、猪の足跡を探す仕草をする。それをシシトギリというのだが、猪がモリの中にいるのを確かめると、爺と婆は腰を下ろしてマブシ割をする。
猪狩りは猟をとり仕切る狩行司がいて、猪を追う勢子と猟犬と、それを待ち伏せするマブシから成っている。
猪の通り道をウジと呼んでいるが、マブシは勢子の追う猪をウジで待ち伏せる。マブシとは人と場所の両方を指す言葉で、猪を待ち伏せする猟師も、その場所もマブシになる。
狩行司は勢子役を決め、誰がどこのマブシに立つのかを決める。それがマブシ割だ。
銀鏡神楽では爺がカリンドの名前を呼び、
「誰某は、某所に」
と、一人一人にマブシにつかせるマブシ割の様子が演じられる。
マブシ割が終わると、爺は背負籠からメンパを取り出し、柴の枝で作った箸で弁当を食べる。犬にも食べさせる。
その最中に、
「犬声がすることあっど!」
という狩行司の声が聞こえると、爺と婆は飯を食うのをやめ、モリを見まわす。
耳の後に手を当て、その声を聞こうとする。
猟犬が猪を囲んで吠え立て、動けないようにしているとわかると、あわててメンパをしまい込み、弓矢を手に取る。
「今日のシシは太てーぞ!」
婆にそういわれると、爺は射損じた時に、そばの木に登れるかどうかを確かめておく。射損じると、猪は猛然と襲いかかってくるからだ。
爺はモリをまわって矢を射ろうとするのだが、弓を持つ手が震えてしまう。
「お前は何しちょるかい。えらい震えちょろ〜が」
「寒っちゃがい」
このあたりの爺と婆のかけあいはユーモラスだ。
爺はそれでもどうにか矢を射り、そのまま木に登ってしまう。
ところが婆の方は落ち着いたもので、一矢、二矢と放つ。
射止めたとみると、爺も木から降りてきて、猪を模したまな板をモリから引っ張り出し、しっぽを切る真似をする。
そのあとで、
「ヘーヘーヘー」
と、3度、叫ぶ。
猪猟の仲間たちと山の神に、猪を射止めたことを知らせるためだ。猪を模したまな板を背負うと、神社の社務所の台所まで持っていき、その片隅にぶらさげる。
こうして終わるシシトギリは20分ほどの演目だが、実際に米良の狩倉(かくら)と呼ばれる猟場でおこなわれてきた共同での猪狩を見事に描き出している。
銀鏡神楽の終わったあとの直会(なおらい)には、シシズーシ(猪肉の入った雑炊)が出る。奉納された猪の頭を焼いて、小刀で毛を落とし、それを大鍋で煮たてる。すると骨と肉に分かれるが、骨をとり除いた中に米を入れて炊き、雑炊にしたもの。まさに日向の山里の味である。