賀曽利隆の観文研時代[77]

 観文研(日本観光文化研究所)発行の月刊誌『あるくみるきく』第114号の「常願寺川」にからめて「滑川のホタルイカ」を、『あるくみるきく』第125号の「下関」にからめて「下関のフグ」をみなさんい見ていただいた。

 くりかえしになるが、「滑川のホタルイカ」も「下関のフグ」も、観文研の企画による『日本の郷土料理・全12巻』(1986年・ぎょうせい刊)の取材で行ったときのものである。

 この日本の郷土料理を訪ねた取材行はじつにおもしろく、ぼくにとっては今でも忘れられないものになっている。ということで、カソリの担当した一連の日本の郷土料理探訪取材行をお伝えしよう。
 まずは「信州伊那谷の馬肉・川魚・昆虫」から始める。

信州伊那谷の馬肉・川魚・昆虫(1)

1986年

 東京から信州の伊那谷が近くなった。

 中央高速道路の全線開通によって、東京・新宿から伊那谷の伊那、駒ヶ根、飯田に行くバスが、1時間に1本程度のかなりの便数で出るようになった。

 高速バスは新宿を出発すると、中央高速道路をノンストップで突っ走り、甲州から信州に入る。諏訪湖畔まで来ると、対岸に上諏訪から下諏訪、岡谷とつづく町並みを眺める。そこからは諏訪湖から流れ出る唯一の川、天竜川の谷間を走り抜けていく。

 高速バスが最初に止まるのは辰野だ。

 伊那谷の北の玄関口ともいえる辰野まで来ると、風景は開ける。右手に中央アルプスの山々、左手には南アルプスの山々が連なり、2つの山脈の間を天竜川が流れている。

 辰野を過ぎると伊那谷はさらに幅を広げ、盆地の風景に変わっていく。

「伊那谷」という響きからは両側に崖がそそり立つ谷間を連想するが、実際には「伊那平」と呼ぶ方がぴったりするほど広い。

 ぼくの乗った高速バスは駒ヶ根行きだが、伊那インターで高速道路を降り、伊那市の市街地に入っていく。

 伊那のバスターミナルに着いたのは新宿を出発してから3時間20分後のことで、新宿駅から中央本線の「特急あずさ」で岡谷駅まで行き、飯田線に乗り換えて伊那市駅まで行くよりも速い。

 さて、伊那である。

「伊那人のげてもの食い」とか「伊那人のいかもの食い」などとよくいわれるが、伊那人は馬肉や多種の川魚、蜂の子、イナゴ、ザザムシ、蚕のサナギなどの昆虫と、さまざまな動物性タンパクを食用にしている。

 ぼくはそのような伊那谷特有の種々雑多な動物性タンパクを食べてみようと伊那にやってきた。

 さっそく町を歩き始める。

 真っ先に目についたのは馬肉だ。

 伊那といえば馬肉といわれるくらいに有名だが、スーパーでも精肉店でも馬肉は幅をきかせている。店頭を見た限りでは、馬肉→豚肉→鶏肉→牛肉といった順の肉の重要度のように見受けられた。

 伊那市駅に近い「板屋精肉店」のショーケースには、馬肉が種類別に並べられていた。

  馬刺し身 450円
  馬最上肉 350円
  馬上肉  250円
  馬中肉  200円

 同じショーケースに並べられた他の肉はといえば、和牛もも450円、豚ロース190円、豚もも150円、豚肩140円であった(値段は100グラム当たり。1986年5月21日現在)

「板屋精肉店」の店主、唐沢元一さんが馬肉について語ってくれた。

「伊那では、昔はどの家でも農耕馬を飼っていましたね。現役を退いた農耕馬はつぶして食用にしていました。それだから馬肉というと硬い肉で、鶏肉よりも安かったですよ。

 今は伊那の馬肉といっても、大半は北海道産。伊那の馬喰(家畜商)さんがトラックで運んできたのを見て、生きてる馬を1頭買って、さばいています。馬は品薄状態がつづいているので、どうしても高くなってしまいます」

「伊那の人たちは、それは馬肉が好きですよ。すき焼きといえば馬肉だし、馬刺しは大好物。ふだんの家庭料理でも、煮つけなどにはよく馬肉を使います。とくにゴボウとのとり合わせがいいので、ゴボウの煮つけといったら馬肉。コロッケやメンチカツにも馬肉を入れますね」

「板屋精肉店」には直営の焼肉店がある。そこで「桜鍋」を食べた。

 桜鍋というのは馬肉のすき焼き。うす切りにした最上のロースが入っている。

 醤油と味醂、味噌、それと酒を少々合わせて下地をつくり、その中に馬肉とネギ、ハクサイ、シュンギク、しらたき、豆腐を入れる。馬肉と味噌がよく合っている。

「板屋精肉店」の直営店はもう1軒ある。「千田」という居酒屋で、唐沢さんと奥さんが二人でやっている。

 日が暮れると「千田」に入り、伊那の地酒を飲みながら馬肉料理を味わった。

 まずは「馬刺し」だ。

 うす切にしたロースを生のまま、ショウガ醤油につけて食べる。くせのない味で、いくらでも口の中に入っていく。さわやかな風味を感じる。

 故郷を離れた伊那人が恋しがるのが馬刺しだということが、本場の馬刺しを口にしてみるとよくわかる。「うん、なるほど」と素直にうなずけるのだ。

 次に「伊那桜」を食べた。分厚い馬肉のステーキだ、

 最後に「おたぐり」を食べた。これは馬のもつをぶつ切りにして、長時間、煮込んだもの。4、5時間水煮したあと、釜で煮込んだもので、長時間煮込むことによってくさみは消え、やわらかくなる。

伊那谷の伊那の町を歩く。正面には中央アルプスが見えている
伊那谷の伊那の町を歩く。正面には中央アルプスが見えている
「板屋精肉店」で馬肉をさばいている
「板屋精肉店」で馬肉をさばいている
桜鍋」と「ゴボウの煮つけ」
桜鍋」と「ゴボウの煮つけ」
「馬刺し」と「伊那桜」、「おたぐり」
「馬刺し」と「伊那桜」、「おたぐり」

 馬の小腸、大腸はとびきり長いものなので、それをたぐり寄せ、たぐり寄せしながら取りだすところからおたぐりというのだそうだ。

 おたぐりは食材にするまでが大変。取りだした小腸・大腸をたんねんに水洗いし、表面を包丁でこそいで脂分をとる。それを切って、さらに2、3時間、流れ水に打たせるのである。

 帰りぎわに唐沢さんは、馬肉について一言、話してくれた。

「馬肉の特徴は低カロリー、低脂肪、高タンパク、高グリコーゲンなので、カロリー過多、コレステロール過多の現代人にとっては最適な肉ですよ」