賀曽利隆の観文研時代[71]

下関(13)

1976年

釜山漁港の大露天市

 釜山には10日あまり滞在した。その間は毎日、釜山とその周辺を歩いた。

釜山漁港の大露天市
釜山漁港の大露天市

 日本を見たくて、対馬が見えるという海雲台や影島先端の岬まで行ったり、甕や壺を焼いている梁山近くの大成里や南倉近くの高山里に行ったりもした。

 さまざまな出会った風物の中で、ぼくが最も魅かれたのは、繁華街の路地裏などで見た露天市だ。韓国人の醸し出す強烈な生活の匂いが満ち溢れていた。

 中でもすごかったのは釜山漁港の岸壁沿いに延びる大露天市。そこでは衣食住の日常生活にかかわるすべてのものが売られているといっても過言ではない。それらの露店の間には、お好み焼きや今川焼、するめや刺身などの屋台があり、竹細工職人が籠や筌を編み、床屋が店を出している。

 商われる商品の多様さもさることながら、そこに集まってくる人の波のうねりと喧騒こそが圧巻なのである。赤裸な人間の生命力が渦まいているとでもいおうか。

 狂ったようにベルを鳴らして、山のような荷物を積んだ自転車が行く。

 怒鳴り声とともにリアカーが行く。

 鳥が羽を広げたような形の大きな背負子を背負った男が行く。

 体の半分くらいの荷物を頭の上にのせた女が行く。

 釜山の北の通度寺でも、朝鮮半島第2の大河、洛東江を渡った金海でも、大露天市を歩いた。品物の多さと人々の熱気はどこの露天市でも共通しているが、土地によって若干の品物の違いがあり、それがその土地の性格を物語っているようだ。

 抜けるような青空と乾燥した冷たい風、町の背後にそそり立つ岩の露出した山。金海の露天市を歩いていると、はるか遠くのアフガニスタンやイランのバザールに相通じるものを感じた。

 関釜フェリーで釜山から下関に戻り、日本の山を見た時、
「青いなあ!」
 と感嘆した。

 韓国のはげ山ばかりを見続けてきた目には、日本の山々の緑があまりにも目に染みた。

 下関の町を歩いてみても、どこにもあのすさまじい雑踏はない。大露天市もない。道いっぱいの露店もない。すべてがきちんとしすぎるほど秩序だっている。それとともに人間の息づかいや溢れんばかりのエネルギーも消えてしまったかのようだ。

 軍人の姿も見られない。軍用トラックや戦車の行進も見られない。空襲警報が鳴ることもない。下関の町を歩きながら、ぼくは改めて釜山を異国だと思った。

 ぼくにとって初めての異国の地は釜山だといったが、あの時は国境という目に見えない壁をものすごく厚く感じていた。だからこそ、その壁を越えて釜山の町に足跡を印した時、ひときわ強く異国を感じ、感動したのだ。

 その後、世界6大陸の130余の国々を旅して、「国境越えのカソリ」といわれるほど、数多くの国境を越えた。

 それでも今回、下関に帰ってみると、釜山はやはり異国だった。

 それどころか、アフリカやヨーロッパ、アメリカ以上に異国を感じさせた。

 東京を出発し、下関に来るまでは、釜山はごく近い所だった。東京〜下関間の1000キロに比べたら、下関〜釜山間はその5分の1でしかない。それが絶えず頭にあった。

 しかし実際に釜山で感じ、下関に帰ってから感じた「下関〜釜山」間の遠さは一体、何なのだろう。220キロという「関釜海峡」の距離を越えた遠さを実感したのが今回の下関の旅だった。