下関(12)

1976年

関釜間の距離

 関釜フェリーの2等船室はいくつかのブロックに仕切られていて、床にはカーペットが敷かれ、毛布にくるまってゴロ寝する。

 ぼくのまわりにいるのは行商のおばさんたち。といってももんぺ姿に大きな荷物といういでたちではなく、高価な毛皮のコートで身を包み、指には大きな指輪が2つも3つも光っている。

 おばさんたちは在日韓国人で、広島に住んでいる。韓国籍なので韓国のパスポートを持っている。月に2、3度、関釜間を往復するという。

 大阪あたりで高級品を買い入れて、それを韓国で売りさばき、韓国からは作るのに手間暇のかかる品物を持って帰り、日本で売るという。

 1人のおばさんはミンクの毛皮の襟から芯を抜き、何枚か無造作にまるめ、「釜山の税関でみつからないといいのだけど」といいながら菓子箱の中に入れていた。

 日本語と韓国語を自由自在にあやつり、国境を越えて行商している彼女たちは、在日韓国人だからこそできることであって、韓国在住の韓国人女性では不可能なこと。一般の韓国人がパスポートを持って自由に海外に出るのは難しい。一昔前の日本がそうであったように。

 船内の暖房が効きすぎて寝苦しく、寝付けないまま地図を広げて見た。

 その時、不思議に思ったのは、海峡に名前がないということだった。

 壱岐と対馬の間は対馬海峡、対馬と朝鮮半島の間は朝鮮海峡だ。昔から日本と朝鮮半島の間の交通は壱岐、対馬経由だからその間の海峡に名前がつくのはよくわかる。

 しかし、明治以降、あれだけ多くの人たちが関釜連絡船で下関〜釜山間を行き来したのだから、「関釜海峡という海峡名がついてもよさそうなのに」と思ってしまう。

 下関に来る前、地図上に下関を中心にして、釜山までの距離を半径にして円を描いてみた。関釜間は直線距離で約220キロ。円は山陰の出雲市、山陽の尾道、四国の新居浜、中村、九州の西都、出水を通る。それを見て、関釜間の近さをあらためて実感した。

 関釜フェリーは翌日の午前1時に釜山港沖に着いた。正味8時間の航海だ。外の気温は下関とそう変わらない。

釜山を歩く

 夜が明ける。晴れている。冬の釜山は晴天の日が多く、乾燥しているという。

 関釜フェリーは朝日が昇る頃、釜山港に入港した。

 入国手続きは船内でおこなわれた。パスポートに入国印をもらうと埠頭の税関へ。ここでの検査は厳しく、荷物はすべて調べられた。下関駅で買った朝日新聞の朝刊と関釜フェリーの売店で買った毎日新聞の夕刊は没収された。

 入国手続きを終えると、港内の両替所で円を韓国通貨のウオンに替えた。6500円を両替して10403ウオン。1円が1・60ウオンのレートだった。

 釜山の中心街は釜山港に近い。

 1968年に来た時とは比較にならないほど、釜山は大都市になっていた。市役所に寄って聞いてみると、人口は250万人を超えたという。下関の10倍だ。そして韓国最大の貿易港になっている。戦後、斜陽の道を歩む下関と、隆盛の一途をたどる釜山。かつて関釜連絡船が結んだ2つの都市の際立つ対照だ。

 釜山駅の近くで安宿を探した。

 小さな店が並ぶ裏通りを歩いた。看板はすべてハングル語。いちいち中をのぞいてみないことには、どれが宿屋なのかわからない。耳を澄ましても、もうどこからも日本語は聞こえてこない。何もわからない異国の地に一人、ポツンと放り出されたような心細さを感じた。

 関釜フェリーは日本の船なので、乗組員も売店や食堂の従業員も、すべて日本人だった。そのため韓国人の乗客が多かったが、船内は日本の延長線上にあった。それが釜山港に着いて、船を降りたとたんに日本からの延長線はプッツンと切れてしまった。関釜海峡のわずか220キロ先に下関があるとはどうしても思えなかった。

 一見すると普通の民家と変わらない安宿をみつけた。

 日本語がまったくわからない女主人と身振り手振りで話し、裸電球の灯いた狭い部屋に泊れることになった。1泊700ウオン。日本円で420円ほどだ。

 朝早くから起き、国境越えで緊張したこともあって、朝鮮式暖房オンドルの効いた暖かい床の上で一時の間、うたた寝した。気持ちのいいうたた寝だった。

 目をさますと行動開始。釜山駅前からやってきたバスに飛び乗った。行先はバスまかせで、終点まで行くことにする。どこをどう通っているのかわからなかったが、流れゆく釜山の町並みに目をこらした。

 バスはトンネルに入り、抜け出たところに料金所があった。料金所を過ぎると、海が見えてくる。海岸には火力発電所があり、船が停泊している。その先がバスの終点だった。

 バスの終点からは山手の斜面を埋めつくすように、びっしりと家が建ち並んでいる。急な斜面を登っていったそこは、下関ではまったく見られないような所だ。

 人があふれ、人々の生活の匂いがまともに吹きつけてくる。

 12月といったら、キムチを漬けるのに一番いい季節。白菜や大根の山があちこちにできている。キムチを漬けるこげ茶色をした光沢のある甕が積み上げられて売られている。その脇では修理屋がひびの入った甕を直している。

 オンドルの燃料になる練炭は冬の韓国には欠かせない。練炭屋は顔も手も真っ黒にして、リヤカーいっぱいに練炭を積んで、坂道を苦しそうに登っていく。その後を手伝いの少年が押す。

 水くみが大変だ。女性たちは頭に大きなブリキカンをのせ、坂下の井戸で水を汲むと、急な坂道を登る。1日に何回かしなくてはならない大仕事だ。

急な坂道を登る水くみの女性
急な坂道を登る水くみの女性

 子供たちは坂道を遊び場にしていた。洗濯板の上に乗って、坂道を滑り降りていた。青っぱなをたらしている子供、とっくみあいのけんかをしている子供、母親にお尻をたたかれ、火のついたように泣き叫ぶ子供。そんな坂道を「オー、オー」とかけ声をかけながら、体の3倍以上もの製品を自転車の荷台にくくりつけて、籠屋が下っていく。

 民族衣装をまとった老人の姿が多く見られた。

 男はくるぶしのところをひもで結ぶバジという、ふっくらしたズボンのようなものをはき、上にはチョゴリを着ている。さらにその上から日本の羽織のようなツルメを着ている人もいる。長い白いあごひげをたらし、杖をついて歩いている。

 女は上にチョゴリを着て、下には日本の袴のようなチマをはいている。

 坂道の両側のあちこちに露店がある。

 お好み焼き屋では、肉のたっぷり入ったぶ厚いお好み焼きを食べた。1枚20ウオン(約12円)。さらにおでん屋、うどん屋と食べ歩いた。

 坂道は登るにつれて狭くなり、山頂のすぐ下までつづいていた。家々もそこまで切れ目なく、びっしりと建ち並んでいた。

 山頂周辺には赤い旗が立てられ、立入禁止になっていた。反対側の山には要塞があり、いまだに戦時下にある朝鮮半島の厳しい現実を見せつけられた。