賀曽利隆の観文研時代[69]

下関(11)

1976年

現代版関釜連絡船で釜山へ

 下関をまわり終えると、関釜フェリーで釜山に渡った。この日は朝から雨。午前中に下関駅に近い関釜フェリーのターミナルビルに行き、切符を買った。1等、特2等、2等と分かれていて、2等料金は片道5500円だった。

 現代版関釜連絡船の関釜フェリーは昭和44年6月の運行開始以来、両国を結ぶ唯一の定期航路として関釜間を航行してきた。

 しかし月、水、金の17時に下関を出港し、翌朝、釜山にに入港するという週3便の運行で、かつての華やかさとは比べようもない。

 また、3800トンのフェリー1隻での運行なので、船の故障やドッグ入りのたびに欠航を余儀なくされている。

 午後になって雨は上がり、薄日が差してくる。ターミナルビル内の待合室はすでにこみ合い、日本語、韓国語がまじり合って聞こえてくる。

 やがて出国手続きが始まり、パスポートに出国印が押されると、「日本を離れるのだ」という実感が胸に迫ってくる。

 ほたるの光が流れる中、関釜フェリーは下関港の岸壁を離れた。冬の弱々しい日は落ち、関門海峡には暮色が漂う。宮本武蔵と佐々木小次郎の対決で知られる船島(巌流島)の脇を通り、海峡の出口の大瀬戸にさしかかる。早鞆の瀬戸が海峡の東口なら、ここは西口になる。下関にも門司にも明かりが灯り始める。彦島をまわり込んで外海の響灘に出ると、下関の町明かりは島影に隠れてもう見えない。門司の町明かりはだんだん遠く小さくなっていく。

 船内の食堂で夕食を食べると、缶ビールを飲みながら、窓ガラス越しに玄界灘を見る。暗い海の向こうには、まだポツンポツンと灯が見える。季節風をまともに受けて、かなり荒れるのではないかといわれた玄界灘だが、穏やかで、関釜フェリーはほとんど揺れなかった。

 夜の玄界灘を見ながら釜山を思った。

 なつかしの釜山だ。

 生まれて初めて自分の足で立ち、自分の目で見た異国の地は、いつまでも忘れられない思い出となって心に残るものだ。何年たっても、それがつい昨日のことのように鮮やかによみがえってくる。

 歩きなれた町の雑踏にいる時とか、満員電車に乗っている時とか、ふだんの何気ない時に、異国の風景が目に浮かんでくる。そのたびに異国の地に夢を馳せ、身も心も夢の世界をさまよう。ぼくにとっての初めての異国の地、それが釜山なのだ。

釜山の思い出

 1968年4月12日、友人の前野幹夫君と横浜港から喜望峰経由で南米に向かうオランダ船の「ルイス号」に乗り込んだ。カソリ、20歳の旅立ち。3年越しの「アフリカ大陸縦断」を実現させるための旅立ちだ。

横浜港に停泊中の「ルイス号」(1968年4月12日)
横浜港に停泊中の「ルイス号」(1968年4月12日)

「ルイス号」は南米に移民する約100人の台湾人、約30人の沖縄人を乗せて釜山に向かった。四国沖の太平洋はまるで夏を思わせるような陽気で、濃紺の海のあちこちでイルカが跳びはねていた。

 豊後水道から関門海峡に入り、下関・門司の町明かりを見たのは真夜中になってからのことだった。玄界灘は雨で、海は荒れ、船は揺れた。

 翌朝、甲板に出ると、船は釜山港の沖合に停泊していた。前日とはうって変わって、首をギュッと縮めてもまだ足りないほどの寒さ。

 船が港内に入っていくにつれて、釜山の町が大きく見えてくる。町の背後は赤茶けた荒涼とした山肌。その頂に迫らんばかりにマッチ箱のような小さな家々が建ち並んでいる。その風景がぼくにとっての釜山。

「釜山」と聞くたびに、あの赤茶けた山肌の風景がまぶたに浮かぶ。

 釜山港では最初は船を降りられないといわれたが、1時間ほどの下船許可が出た。ぼくにとってこれほど中身の濃い、充実した1時間はない。

 うれしいことに雨は止み、薄日が差してきた。厳重な検査を受け、体中をさわられて港を出たが、そのことがもうここは日本ではない、異国の国だという証のように思えた。

 釜山の町中に解き放たれると、目を皿のようにしてあたりを見まわした。何もかもが珍しかった。

 自動車が右側を走っているといっては驚き、警官がライフル銃を背負っているといっては驚いた。

 絵葉書を出そうと思って郵便局で切手を買うと、いつもの見慣れた切手ではないので貼るのがもったいなくなり、出すのをやめた。

 いつのまにかスーッと寄ってきた男に「時計を売らないか」といわれ、別な男には「カメラを売らないか」とか「ドルに替えないか。300円で替えてやる(当時は公定レートで1ドルは360円。闇ドルだと1ドルは400円を超えた)」といわれ、胸をドキドキさせたりした。

「ルイス号」に戻ると、韓国人移民が乗船を始めていた。約80人で、主にボリビアに移民するという。岸壁には大勢の人たちが見送りに押しかけ、五色のテープが乱れ飛んでいる。しかし華やかな色彩とは裏腹に、港を包み込む空気は重苦しいものだった。

 あちこちから体の芯まで訴えてくるような泣き声が聞こえてくる。流れ落ちる涙をぬぐおうともせずに見送りの人に何か懸命になって叫ぶ男の人、手すりから崩れ落ちて甲板を両手でたたきながら泣き叫ぶ女の人。

 ぼくのそばにいた日本語を話せる年配の人は、
「私はもうこれで二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」
 といって声をつまらせた。

 銅鑼(どら)の音が鳴り響き、汽笛が鳴って、出港しかかった「ルイス号」だったが、突然その気配をなくした。船員や制服の警官たちがあわただしく船内を駆けまわる。見送りの老婆が下船せずに、船内のどこかに隠れたという。肉親との生き別れに耐えかねて、無我夢中で隠れたに違いない。哀れだった。

 1時間ほどすると、再び銅鑼が鳴って、今度はほんとうの出港となった。

 錨が上げられ、船と岸壁をつなぐ太いロープが外された。

 釜山港の岸壁が、見送りの人たちが遠くなっていく。やがて釜山の町並みも遠くなっていく。海峡は晴れ渡っていた。

 赤茶けた釜山の山肌が見えなくなるといたたまれない気持ちになり、船室から一升瓶を持ってくると、誰もいない救命ボートによじ登り、東シナ海から南シナ海、さらにはインド洋へとつづく朝鮮海峡の大海原を眺めた。

 水平線を赤く染める夕日を見ながら、一升瓶の酒を飲んだ。

「もう二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」の一言が、どうしようもなく耳にこびりついて離れなかった。

 それがぼくにとっての初めての異国の地、釜山での思い出だ。

 オランダ船の「ルイス号」は日本から出た最後の移民船になった。日本からの南米移民が終わったからである。

 1968年4月12日というのは、日本が高度経済成長の道を突っ走り、まさに絶頂期に差し掛かろうかという時期だった。