下関(10)

1976年

下関から長府へ

 長門国の国府が置かれた長府に向かったのは、下関滞在の5日目のことで、身を切られるような冷たい北西の季節風にのって小雪の舞う肌寒い日だった。

 近世には毛利支藩の城下町になる長府は、この一帯の政治の中心地。一方の下関は経済の中心地。両者は2里(約8キロ)という距離をおいて、古くから強く結びついていた。

長府を歩く
長府を歩く

 下関駅前からバスに乗って長府へ。周防灘沿いの国道を行く。かつてはこの道を山陽電気軌道の電車が走っていたという。

 長府に着くと、まずは食堂で昼食。

 タチ(太刀魚)の塩焼きとイカの煮つけを食べたが、あまりの寒さにいつまでもぐずぐずと店のストーブにかじりついていた。

 やっと重い腰を上げて食堂を出ると、商店街を通り抜け、長門二宮の忌宮(いみのみや)神社を参拝する。ちなみに長門の一宮は新下関駅に近い住吉神社だ。

 忌宮神社は第14代仲哀天皇が朝鮮半島の三韓攻撃のために遷都した豊浦宮跡だとのことで、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っている。神社の入口には人が入れないように縄が張られていたが、たいして気にも留めずに石段を登り、境内に入っていった。そこには「豊浦皇居跡」の石碑や、神宮皇后が新羅遠征の是非を神に問うために植えたという逆松、仲哀天皇の時代に中国から初めて蚕がもたらせられたのを記念する「蚕種渡来之地」碑などがあった。

 忌宮神社の参拝を終え、別な出口から出ようとしたが、そこにも縄が張られていた。ここでもたいして気にも留めず、縄をくぐり抜けて出ようとした。

 その時のことである。

 自転車で通りがかった老人に、「おい、ダメじゃないか」と、強い口調でとがめられた。何がダメなのかわからないままとまどっていると、老人は強い風が吹きすさぶ中で、その理由を話してくれた。12月7日の晩から15日の朝までは「御斎(おいみ)祭」で、そのため神社内には入れないという。

 老人はぼくがよそ者だとわかると、つづいて「御斎祭」について、丁寧な口調で話してくれた。

「神功皇后様が三韓征伐から凱旋されたあと、応仁天皇様がお生まれになったのです。その時、七日七夜忌み籠られて、それが御斎祭の始まりになったのです。

 昔は大変でしたよ。御斎祭の最中にお宮の中を通るなんて、もってのほかでした。お宮の近くを歩くのでさえ、あんまり足音が大きくならないようにと気をつかいました。夜はできるだけ早く戸閉りをして、明かりも早く消したものです」

 老人の話を聞いたあとのことになるが、長府の民俗歳時記を見ると、御斎祭の起源にはほかにも説があることがわかった。

 仲哀天皇が筑紫で急死したあと、神功皇后が七日七夜、斎戒沐浴をし、三韓遠征の当否の神託を乞うたことによるという説や、征韓にあたり七日七夜、戦勝の祈願をしたという説などである。

 御斎祭の期間中、夜間の灯火は厳しく制限されただけでなく、音曲をつつしむ、葬式を出さない、野良仕事をしない、下駄の緒をすげかえないなど、守らなければならないことがいろいろとあった。

 長府には忌宮神社のほかにも、仲哀天皇や神功皇后にまつわる伝説の地がいくつかある。長府の海に浮かぶ満珠、干珠という2つの小島がそうだし、町の南の唐框(からうと)山には仲哀天皇の「御殯斂(ひんれい)地」がある。ここは仲哀天皇を仮に埋葬した場所だという。石段を登っていくと、こんもりした円い盛土があり、その上には小石が置かれ、花が供えられていた。

 忌宮神社は長門の国府跡で、ここに国衙(国府の政庁)が置かれた。町の西、今は覚苑寺の境内になっている所には「鋳銭(じゅせん)所」が設けられ、日本最古の和胴開珎が鋳造された。近世になってからの長府は5万石の城下町。幕末には動乱の拠点になった。長府は長い年月の歴史が幾層にもなって積み重なった町なのだ。

 小雪の散らつく中、寒さに震えて歩いた長府は、忘れられない町になった。

 大型トラックが轟音をとどろかせて往来する国道の喧騒も、近くに臨海工業地帯があることも、すっかり忘れさせてしまうような静けさと落ち着きを持っていた。時おり聞こえる船の汽笛が、海峡に近いことを思いおこさせた。