賀曽利隆の観文研時代[67]

下関(9)

1976年

『バカン』はどこ?

 下関に行く3ヵ月ほど前に、観文研の先輩の工藤員功さんと、山口県の北浦を歩いた。北浦は下関から北の日本海沿岸の一帯だ。

 二見というひなびた漁村で70歳を過ぎたおばあさんに、まだ帆船が通っていた頃、商港として栄えた二見港の様子などを聞いた。

 おばあさんは娘時代の話もしてくれた。

「あの頃は女は12、3になると、奉公に行ったものです。女中奉公ですよ。わたしも13の年に行きました。自分で言うのも何ですが、それは一生懸命に働きました。このあたりの娘はたいてい『バカン』に行きました。小倉や博多に行った者もおりました」

 その話の中で出た『バカン』がわからなくて、「バカンて、どこのことですか」と聞いた。するとおばあさんは、「下関のことですよ」と言った。おばあさんにとって下関は、今でもバカンなのだ。

 ぼくが下関の地名に興味を持ったのは、この時が最初である。調べてみると、バカンは馬関と書くことを知った。昭和17年に完成した鉄道海底トンネルが「関門トンネル」と名付けられる以前は、関門海峡も下関海峡とか馬関海峡と呼ばれた。

 明治22年に市町村制が発足した当初、下関は山口県では唯一の市で、名称は赤間関市だった。それが明治35年に下関市と改称されて現在に至っている。「赤間」は赤間神宮や赤間硯などにその名が残っている。

 赤間関、下関、馬関、関と、これら下関を表す地名がある時代には、同時に用いられていた。それがおもしろいと思った。

 赤間関と下関は古くからの地名だが、馬関、関は比較的新しく、江戸時代になってからのことだという。

「赤間を赤馬に作り、馬関の号を見るは、元禄以後の詩人の発意にして、近年に至り、世間押しなめて馬関と呼ぶ」
 と、明治に編纂された地名辞典にはそう出ている。

 赤馬関を略して馬関、関になったのだ。

 日本がひとつの国として統一される以前は、下関あたりは海峡にちなんで穴戸とか穴門と呼ばれていた。それが大化の改新以降は長門国なり、国府は長府に置かれた。長府は下関とは間に山ひとつをはさんだところにある。

 その頃、下関は臨門と呼ばれていた。海峡に面したところといった意味だろう。そこは山陽道の終点で、関が置かれた。臨門の関は長門国でも一番重要な関で、公には長門国関とか長門関といわれた。民間では赤間関と呼ばれることが多かったようだ。

 また海とかかわりの深い人たちは下関と呼んだ。長島(山口県上関町)の竈戸関(上関)に対しての下関である。周防灘の東を押さえる上関と、西を押さえる下関。後にはその中間に中関(防府市)が置かれた。

 下関の地名の移り変わりはじつにおもしろい。

下関の山陽道終点の碑
下関の山陽道終点の碑