賀曽利隆の観文研時代[11]

東米良の「焼畑」(2)

 日本観光文化研究所(観文研)で共同調査をおこなった東米良には、「コバヤキ日和」という言葉が残っている。

 焼畑のコバヤキするのは3月から4月にかけての異常乾燥注意報が出るような頃がいい。天気つづきで、春霞が立つような日だ。この季節は山火事が多く発生するころでもあり、コバヤキと山火事はまさに紙一重。一番危険な時期に山を焼くのだから、細心の注意と火を扱う技術、それとなによりも度胸が必要だという。

 なぜこのような最も危険な時期に山を焼くかというと、「ジヤキ(地焼)」といって、いかに地面をよく焼くかが、焼畑の生命になってくるからだ。

 うまくジヤキできたコバだと、作物が病気にかかりにくく、雑草がはえにくく、そして作物がよくできるのである。

「今年できないコバは来年もできない」とか「焼けないコバは一生の不作」といわれるほどで、コバの出来、不出来はコバヤキによるところが大きい。そのため一番よく焼ける時期に火を放つのである。

 コバのまわりには「カダチ」と呼ぶ幅3メートルほどの防火線を切る。コバの地形によって違いはあるが、傾斜がゆるやかだと、それほど広くとる必要はない。コバの上部をヨッカシラとかクチモトといっているが、その部分のカダチは幅4、5メートルと広くとる。なお上部のヨッカシラに対して横の部分をヨコジリといっている。

 カダチの落ち葉はきれいに掃き清め、燃えるものが何もないようにしておく。さらに火が燃え移った時に消すためのヒボティを用意しておく。ヒボティはツバキやサカキなどの生柴を束ねたもので、それで火をたたいて消す。防火祈願に東米良の北、北郷の宇間納地蔵の御札をカダチに立てておく。

 さて、いよいよコバヤキだ。晴天の無風の日を選んで焼く。コバヤキは男の仕事で、午前中に火を入れる。上部のヨッカシラから1間(約1・8m)間隔で火をつけていく。タイマツで火をつけていくのだが、その火をコバの中央へと、うまく下ろしていく。コバヤキの炎はすさまじい。高さが10メートルを超えるような火柱が立つ。無風の日でも炎と熱とで、熱風が渦を巻く。

 火は上から下に下ろすだけでは時間がかかりすぎるので、ある程度焼けると、コバのまわりのヨコジリにも火を入れる。しかしヨコジリに入れる火が早過ぎると、地面のシン(芯)が焼けないという。つまりジヤキ(地焼)しないのである。

 1町歩(約1ヘクタール)ほどのコバだと、焼くのに3、4時間、かかる。できるだけ手間をかけて焼いたほうが、当然、よくジヤキする。

「火もようたかんモンはヒトリマエではない」といわれたほどで、コバヤキを上手にできない男は一人前とはみなされなかった。

 翌日、燃え残りを焼いた。それを「キヤキ」といった。あまりジヤキしていないようなところに燃え残った木を集め、キズカ(木塚)を築いた。山のように積み上げたところで火をつけたので、これもやはり大きな火になった。

 そのようなところから、大きな火のたとえとして、東米良では「キズカを焼くような」といういい方をする。たとえば、ジロ(囲炉裏)を使っていたころは、薪をくべすぎて大きな火にしてしまったときは、「キズカの火のごとく…」といったような注意をされたという。

 キヤキしたあと、木の切り株に焼け残りの木を渡して土止めにした。それを「オモノリ」といった。オモノリの上には表土がたまるので、作物の成りがいい。反対にオモノリの下は表土が流れ落ちてしまうので、作物の成りが悪い。オモノリをはさんで上と下とでは収量がかなり違ったという。

 このようにして焼いた最初の年、第1年目のコバを「ニコバ」といった。ニコバではヒエをつくった。そのためヒエコバともいった。ニコバは毎年、切り開かれていった。

 東米良には「千貫コバ」という言葉が残っている。それは1町歩(約1ヘクタール)以上の大きなコバで、そこでのヒエの収量は千貫(約3750キロ)以上あった。そのような千貫コバが上揚の古穴手(ふらんて)地区だけで3、4ヵ所にあったという。

 コバヤキしたあとのヒエの種蒔きは4月。雑草の芽吹きはじめるころを「キャヘイ」というが、その頃を目安にした。ツナブクロとかタナブクロと呼ぶ木綿の袋にヒエの種を入れ、おおよそ1反(約1000平方メートル)に1・5合(約0・27リットル)の割合で種をまいた。直播きなので、この種まきが難しい。下手な人がやると、どうしても厚くまいてしまう。そうするとヒエは密植し、成長が悪くなり、病虫害にもやられやすくなり、穂も小さくなってしまう。「千振れ、千振れ」といわれるが、手を千回も、つまり数多く振るようにして種を薄くまいていく。

 コバの下から上へ、ジグザグ登りながら何ヵ所かに立てたタナジルシ(種印)を目安にまいていく。まき終わったあとは、刃幅の狭いヤマグワで軽く表土をかけておく。種はなかば見えるくらいでかまわないという。

 ヒエは種をまいてから1週間ぐらいで発芽する。いったん種まきをしてしまうと、あとは草むしりをするくらいで、ほとんど手をかけない。肥料を施すこともない。これが焼畑の大きな特徴だ。最初の草とりはヒエが10センチ程度に伸びたとき。2度目は盆前の頃。道具を使わずに手でむしりとる。

 8月から9月にかけてヒエは穂を出す。この時期、神主に「ムシヨケ」に来てもらう。ヒエに虫がつかないように、病気が発生しないように、呪文を唱えながらコバのまわりをまわってもらうのだ。そして10月の下旬から11月にかけて収穫した。

 1年目のコバを「ニコバ」というといったが、2年目のコバは「キャギャシ」になる。「キャギャシ」ではヒエとアワを栽培した。ヒエとアワの種を混ぜてまくこともあった。

 3年目のコバは「ナツウチ」といって、マメとアズキをまいた。東米良でマメといったらダイズのことで、マメとアズキを混ぜてまくこともあった。

 4年目のコバは「コナ」とか「コナウチ」、「コナカキ」と呼び、ヒエやアワの雑穀類をまくこともあり、3年目の「ナツウチ」同様にマメやアズキの豆類をまくこともあった。

 こうして使い終わったコバは自然に帰してあげるのだ。東米良の人たちはそれを「山ノ神に返す」といっている。みなさんは山ノ神に対して「畏れ」とか「敬い」の気持ちを誰もが強く持っている。山を生活の舞台にして日々、無事に生きていかれるのも、かぎりない自然の恵みを受けられるのも、すべて山ノ神のおかげだと信じている。それだから、たとえばコバヤキをする前には、コバには必ず御神酒を供えた。地力の衰えた焼畑地はひとまず休閑地にするが、20年とか30年たって焼畑の跡地に樹木がおい茂るようになると、また焼畑地として利用するのだ。

 東米良の人たちの言葉を借りれば、また「山ノ神から自然の恵みを与えてもらう」ことになる。これはたんに東米良にとどまらない。東米良の焼畑のサイクルを通してぼくは日本の山地民と、山との息の長いつきあいの一端を見た。(つづく)