賀曽利隆の観文研時代[12]

東米良の「焼畑」(3)

 日本観光文化研究所(観文研)で共同調査をおこなった東米良の焼畑のうち、秋にコバキリして春に焼く「秋コバ」はヒエコバともいわれるように、ヒエをつくるための焼畑といった色彩がきわめて強い。それに対して夏にコバキリし、その直後に焼く「夏コバ」は菜園的な焼畑といっていい。大規模な焼畑の秋コバに対して、夏コバは小規模な焼畑になる。

 オクヤマ(奥山)とかミヤマ(深山)でおこなう秋コバに対して、夏コバはアサヤマ(浅山)でおこなった。アサヤマというのは家に近い山で、それほど年数のたっていない森林、せいぜい樹齢が14、5年の山をいった。秋コバをヒエコバといったように、夏コバはダイコンコバとかソバコバといった。その呼び名の通り、夏コバでは主にダイコンとソバをつくった。

 夏コバは梅雨の明けた直後の7月初旬にコバキリし、伐った樹木や柴、刈った草などを夏の強い日差しで乾かし、8月初旬にコバヤキした。8月中旬にはダイコン、下旬にはソバの種をまいた。ダイコンもソバも11月の降霜前に収穫した。

 2年目の夏コバではイモ、もしくはマメ、アズキを栽培した。東米良でイモといえばサトイモのことであり、マメといえば先にもふれたようにダイズのことである。

 イモは3、4月に植え付けし、10月下旬には収穫する。マメ、アズキは7月初、中旬に種をまき、同じく10月下旬には収穫した。

 3年目の夏コバは2年目と同じか、もしくは茶園にした。夏コバの跡地には無数の山茶がはえてくる。また夏コバに肥料を施し、焼畑から常畑にするようなこともあった。そこではノイネやイモ、カライモ、トウモロコシをつくった。ノイネとは陸稲、カライモとはサツマイモのことである。

 東米良では秋コバは昭和20年代から30年代の前半で終わってしまったが、夏コバは観文研の共同調査のおこなわれたころまで細々とではあるがつづいていた。そのような焼畑の現場を自分の目で見ることができたのは何ともラッキーなことだった。

 さらに冒頭の宮本先生のお言葉ともかかわってくることだが、ここでは狩猟(猪狩り)についてもいろいろと見聞きすることができた。猪狩りに同行させてもらい、その一部始終を見せてもらった。

 東米良のあとはバイクを走らせ、自分一人で焼畑を盛んにおこなっていた地域に行ってみた。

 カソリの「日本焼畑紀行」だ。

 宮本先生の足跡を追うようにして宮崎県の椎葉や石川県の白峰、山梨県の棡原、さらには滋賀県の姉川流域、静岡県の大井川流域、長野県の秋山郷、新潟県の三面…と。それらの地域では焼畑の経験者に焼畑にまつわる話をいろいろと聞かせてもらった。

 宮本先生は日本の焼畑は畑作の前形式になるものだといわれたが、そのような長い歴史を積み重ねてきた日本の焼畑がまさに消え去ろうとしている時に、それを見聞することができたのだ。

東米良の前年に焼いた夏コバの跡
東米良の孟宗竹の筍掘り
東米良の猪狩りに同行させてもらう
猪狩りが終わると猪肉を分配する