賀曽利隆の観文研時代[10]

東米良の「焼畑」(1)

 宮本常一先生が亡くなられた以降の日本観光文化研究所(観文研)の共同調査は、周防大島の「椋野」のみならず、九州山地の「東米良」、下北半島の「佐井」をフィールドにしてもおこなわれた。

 観文研の「東米良」での共同調査(1982年〜1983年)では、「焼畑」をメインテーマにした。宮本常一先生は日本の焼畑に深い関心を持っておられたからだ。

『日本文化の形成・下巻』(宮本常一著・そしえて刊)の「焼畑」の項では、「戦前は旅の途中で焼畑をしばしば見る機会を持ったし、宮崎県東米良、椎葉、高知県寺川、石川県白峰、能登門前、山梨県棡原などではかなりくわしい聞き取りをおこなうことができた。そして焼畑は狩猟・採取の延長として発生したものではないかと考えるようになった」と書かれている。

 九州山地の東米良は現在は宮崎県西都市の一部になっているが、かつては東米良村として1村を成していた。

 焼畑は今の日本ではほとんど見られなくなってしまったが、つい3、40年ほど前までは日本の広範な地域、とくに山地でおこなわれていた。

 東米良では焼畑のことを「コバ」と呼び、コバを切る作業をコバキリといっていた。

 コバには秋にコバキリをして春に焼く「秋コバ」と、夏にコバキリしてその後で焼く「夏コバ」があった。焼畑の中心になるのは「秋コバ」で、そこではかつての主食だった雑穀のヒエが栽培された。

 秋コバにする山はなるべく年数のたった樹木のはえている山がよく、とくにモミの大木がはえているような場所が秋コバをするのには最適な場所だったという。

「モミの下でトーラ1俵(トーラで1俵、ヒエがとれるという意味)」
 といわれたほどで、モミの木のはえているあたりは地力があり、ヒエの成りがよかった。反対にコウヤマキやマツのはえている場所は土地がやせていてヒエの成りが悪かった。「千年ブロシ」ともいわれるが、有史以来、初めて斧を入れるような原生林のコバほど、ヒエの成りがよかったという。長年にわたる落ち葉などの堆積で、土壌は有機質に富んでいるからだ。東米良では標高1000メートルぐらいまでの高地で焼畑がおこなわれた。

 秋コバのコバキリは9月から11月にかけておこなわれた。斧、鉈、鎌を使ってのコバキリで、鋸を使うようになったのは新しいことだという。

 樹木を切り倒し、それをさらに小さく切っていく。柴を刈り、木ぎれなどとともに地面に広げていく。下草や蔓などを刈り払い、柴の上にまきちらし、乾燥させる。大木は伐り倒さずに、長さが3、4メートルほどの棹の先に鉤をつけたキオロシザオを使って木から木へと飛び移り、枝を下ろしていく。それを「キオロシ」といった。

 キオロシはまさに命がけの仕事だった。そのためキオロシに出かける朝にはいくつかのしてはいけない掟があった。

1、女の炊いた飯は食べない。
1、朝食ではあえものは食べない。
1、欠けた茶碗は使わない。
1、普段、使う箸は使わない(山で伐ったものを使う)。
1、サルの話をしない。

 キオロシの作業中、木から下りるのは昼食のときだけだった。その昼食も木の上で食べることもあった。キオロシは落葉樹の落ち葉が落ちる前に終わらせなくてはならなかった。落ち葉が積み重なってからキオロシしたのでは、下の落ち葉は乾燥せず、焼いたとき、地面がよく焼けないからだ。焼畑で一番重要なことは、いかに地面をよく焼くかということなのだ。

 キオロシの際には「キオロシの唄」を歌った。それは山ノ神への作業の安全を祈るものであり、自分自身の心の安定を計るものであり、家族への無事を知らせる通信の役割もはたしていた。

 山ノ神の加護を願う唄からはじまり、キオロシの作業上の注意・要領など全部で「四十八流れ(番)」あったという。そんなキオロシの唄の一部を東米良・上揚の河野開(大正7年生まれ)さんに聞いた。

「登り木の 高木のせびより ながむれば 星こそ見えたと はるばると」
 という唄があったが、まっすぐ、スーッと伸びる大木は木の先端の「せび」を残した。

 その理由は、せびを切り落とすと、木の揺れが大きくなるからということだが、山ノ神の依代(神の宿る場所)として残しておくという信仰上の理由が大きかったようだ。

 また根元近くに大きな洞があって、くぐり抜けられるような大木には山ノ神が宿っているといわれ、「ヤマガミノアソビ」といって伐り倒してはいけないものとされていた。それを伐り倒したばかりに思わぬ災難に見舞われたという話がいい伝えられている。

 キオロシをし、伐った木をヨコシ(横)に並べた。そうすると、地面がよく焼けるからである。こうしてコバキリを終えた焼畑は、春までそのまま放っておく。その間に、樹木や柴、草、落ち葉などは十分に乾燥し、焼くのを待つばかりになる。(つづく)