[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 16 アテネ[ギリシャ] → チャナカレ[トルコ]
アテネにて
ギリシャのアテネ国際空港に到着したのは1974年3月25日午前10時10分。その日、アテネは独立記念日の祭典でにぎわっていた。いたるところにギリシャ国旗が掲げられ、目抜き通りのアマリアス通りを陸軍が行進した。戦車部隊、ミサイル部隊、オートバイ部隊、歩兵部隊、女子部隊…と行進は次々とくりひろげられていく。アテネには広場がいくつもあるが、その中でもとくによく知られているシンダクマ広場は見物する人たちで身動きがとれないほど。空軍の戦闘機が編隊を組み、轟音を残して飛び去っていった。
アテネには2つのユースホステルがあった。3、4日は滞在するつもりだったので、地図を見ながらアレクサンドロス通りのユースホステルに歩いていった。そのユースホステルでユキとロッド、ブライアンの3人組に会った。彼ら3人はエチオピアで知り合い、スーダン、エジプトと一緒に旅をつづけ、アテネにやってきた。
彼ら3人とも20代の若者。ユキは日本人でひげをはやしていた。笑うと細い目がさらに細くなった。おだやかで、おっとりしている。ブライアンはニュージーランド人、ロッドはオーストラリア人だ。
ユキはインドのカルカッタからパキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、シリア、レバノンと4ヵ月をかけて自転車で走破した。きっと大変なこともたくさんあったに違いないのだが、「毎日、ペダルをこぎ続けただけですよ。気がついたらベイルートに着いていた」とさらりといった。
アテネからは3人、それぞれ、行き先が違っていた。ユキは自転車で北欧へ。ブライアンはバスでロンドンへ、ロッドはトルコのイスタンブール経由でインドまで行く。
アテネからの第1案と第2案
ぼくはどうしようか決めかねていた。ベイルートからカイロに飛んでアフリカに戻るつもりにしていたが、まだ「アテネ→ロンドン」間の飛行機のチケットが残っていたからだ。例のオーストラリアのパースで買った「パース→ヨハネスバーグ→ナイロビ→アテネ→ロンドン」の1年間有効のチケット。このチケットを使ってアテネからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわり、再びアテネに戻ってくるのが第1案。だがもし「アテネ→ロンドン」間のこのチケットを誰かが買ってくれたら、ロンドンに飛ばずに、ギリシャからトルコ、シリアを通ってレバノンに入り、ベイルートからカイロに飛びたかった。これが第2案だ。そこでブライアンに聞いてみた。
「ねえ、ブライアン、ロンドンまでの飛行機のチケット、30ドルで買わない?」
彼の買ったロンドン行きの直通バスは50ドルだった。
「ほんと! だけど、このバスのチケット、キャンセルできるかなあ。もし、できたら買うよ」
第2案に決まる
次の朝、ユキが一番早く起きた。国際学生証を発行してもらうためだ。それがあると運賃の割引などに使え、ヨーロッパではすごく便利なのだ。アテネでは簡単にその国際学生証が取れるという。ユキは適当な文句をタイプしてもらった紙に、正露丸のふたをハンコがわりにペタッと押し、「さー、これで大丈夫だ」と、朝のアテネの町に出ていった。
残ったぼくたち3人はユキよりも遅れてユースを出るとシンダクマ広場へ。広場に面したアメリカン・エクスプレスの前は歩道にテーブルとイスの置かれた路上カフェ。そこは世界中から集まってくる旅行者でにぎわっていた。色白の背の高い女の子は、「アムステルダムまで乗せてくれる人を探してます」と書かれた画用紙を首からぶらさげて立っている。その隣では若い男女がなつかしそうに再会を喜び合っている。そんな自由な、のびのびとした空気の漂うシンダクマ広場だった。
ぼくたち3人はそれぞれにすることがあり、1時間後にふたたび同じ場所で会うことにして別れた。シンダクマ広場にはぼくが一番最初に戻った。さきほどの女の子はあいかわらず画用紙を首からぶらさげて立っていた。2番目に戻ってきたブライアンは「このバスのチケットはキャンセルすると、半分しか戻ってこないんだ。だから、今、ここで売ろうと思う」といって、「ロンドンまでバスのチケット1枚。40ドル。出発は明朝」と書いた紙を手に持ち、画用紙の女の子のわきに立った。
驚いたことに、それから30分もたたないうちに、ブライアンのバスのチケットは売れた。「よかった、よかった!」とブライアンとは手をとりあって喜び合った。ぼくはすぐさま「アテネ→ロンドン」の飛行機のチケットを彼に売った。これでぼくのアテネからの進路は第2案に決まり、ヒッチハイクでトルコに向かうことになった。
ブライアンはできるだけ早く、ロンドンに住んでいる兄さんのところに行きたかった。彼の所持金はほんど底をついていた。兄さんのところに身を寄せ、何ヵ月か働いて金を貯めると、また旅をつづけるのだという。
アテネで血を売る
ロッドは約束よりも大分、遅れて戻ってきた。彼は「1ccの血を1ドラクマ(約10円)で買ってくれるところがあるんだ。一緒に行かないか」とぼくたちを誘う。「1人400ccまでは大丈夫だ」ともいう。血を売ることに後ろめたさを感じたが、3人で血液銀行に行くことにした。根気よく、依然として立ちつづけている画用紙の女の子に「がんばってね」と励ましの言葉をかけてぼくたちはシンダクマ広場を離れた。
血を買ってくれるところは裏通りに面してひっそりとあった。表には何の看板も出ていない。外の戸が開いていて中に入り、白い階段を登った。採血は小柄なブライアンが最初で、次がロッド、そしてぼくの番になった。採血の前に血圧を調べられたが、幸いにもというべきなのだろうか、血圧が低すぎて採血できないといわれた。何か、すごくホッとした気分だった。
夕方、ユースホステルに戻ると、ユキはぼくたちよりも早く帰っていた。
「国際学生証はうまく取れたし、自転車の整備も終わったし、いよいよ北欧に向けて出発だ」
翌朝、4人は時を同じくしてアテネを離れた。ユキはペダルをこいでアルプスを越え、ドイツの平原を走り抜けてスカンジナビア半島を目指した。ブライアンはぼくから買ったチケットでロンドンに飛んだ。ロッドは直通バスでイスタンブールへ。ぼくはヒッチハイクでトルコに向かった。
「日本はよかった!」
ギリシャでのヒッチハイクは楽ではなかった。なかなか乗せてはくれない。アテネはヨーロッパでは南国だが、緯度では東京よりも北になる。3月末というとまだ夜の冷え込みがきつかった。野宿していると手足は凍りつき、あまりの寒さに目がさめてしまう。
ラーミア、ラリサと通りカテリーニへ。その途中では青いエーゲ海が何度も見えた。浜辺には春の野花が咲いていた。オリンスポスの山々はまだ雪で真っ白だった。
ドイツ人旅行者の車には何度か乗せてもらい、ずいぶんと助かったが、その中でもベンツの新車に乗った初老の人が忘れられない。その人は1927年から3年間、アジア各地をさまよい歩いた。その間はほとんど民家に泊めてもらったというのだ。西アジアからインド、そして東アジアへ。中国では上海から揚子江をさかのぼり、漢口から重慶まで行ったという。
そのあとで日本に来た。
「日本は私にとっては一生、忘れられない国だよ。キミを乗せたのも、日本人に違いないと思ったからだ。日本はほんとうにきれいな国だったね。フジヤマ、キモノ、ショドウ(書道)…。みんな、今でもはっきりとおぼえている。東京ではヨシワラにも行った。とってもよかった…」
1920年代の後半といったら昭和初期ではないか。ドイツ人の話を聞いてぼくもそのころの日本を見てみたかったと思った。戦後生まれのぼくにとっては、戦前の日本というのは、はるかかなたの遠い世界。それだけに強い憧れがある。
その初老のドイツ人は「日本はよかった!」を連発する。その「よかった!」には、過ぎ去った青春を燃焼させた日々への追憶も多分にあるに違いない。しかし、それだけではないと思う。心底、「よかった!」と思わせるものが、当時の日本にはきっとあったのだ。
ギリシャ・トルコの国境通過
ギリシャ第2の都市、サロニカ(テサローニキ)は北緯40度を越えている。グッと冷え込み、野宿は一段と厳しいものになる。もう寒くて寒くてなかなか寝つけない。あるもの全部を着込み、その上に雨具を着て寝袋に入り、その上からビニールのシートをかぶった。そんなにまでしても、じきに手足は氷のように冷たくなってしまう。朝起きると、夜露に濡れた寝袋はグチョグチョになっている。
アレクサンドロポリスを通り、トルコ国境へ。仲の悪い両国にふさわしく、国境に通じる道の交通量はガクンと減った。国境目指し、冷たい風に吹かれながら歩きつづけた。手は赤く腫れ上がり、もう痛いのを通り越していた。
国境までの10キロあまりを懸命に歩いた。その途中でザックの肩ひもがとうとう切れてしまった。ザックをかかえたり、頭の上にのせたりして歩きつづけた。
まずはギリシャ側の国境事務所に到着。まるで軍の要塞であるかのように、軍人の姿を多くみかける。出国手続きを終え、トルコ側へ。川が国境になっている。軍隊の警備はより厳しいものになる。まるで両国は戦争状態にでもあるかのような光景だった。トルコ側の国境事務所で入国手続きを終え、トルコ内に入ったときはホッとし、フーッと大きく息をした。
拡大版「六大陸周遊計画」とは
国境近くのイプサラの町まで歩いた。そこからケサンまでは信じられないことだったが、なんと路線バスが停まってくれ、タダで乗せてくれた。ケサンから幹線道路をまっすぐ行けば、ボスポラス海峡に面したイスタンブールに着く。だが、ぼくは南のダーダネルス海峡に通じる道に入っていった。
「ボスポラス海峡はユーラシア横断のときに越えよう!」
アテネを出発した時点で、ぼくは「六大陸周遊計画」を大幅に拡大していたのだ。日本を出発する前は、タイのバンコクを出発点にし、アジア→オーストラリア→アフリカ→ヨーロッパ→北米→南米とまわり、最後はアメリカ西海岸のサンフランシスコから日本に帰るというものだった。それを拡大させたのは、アテネからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわってアテネに戻るという先の第1案をキャンセルしたことも理由のひとつになっている。
拡大計画というのは次のようなものだ。サンフランシスコからアメリカを横断してニューヨークへ。ニューヨークからロンドンに飛び、西欧→東欧とまわりアテネ、イスタンブールへ。ボスポラス海峡を渡って西アジアを横断し、インドのカルカッタへ。そこからタイのバンコクに飛ぶというものだ。サンフランシスコではなく、出発点のバンコクを今回の「六大陸周遊」の終点にしようと決めた。ボスポラス海峡は拡大版「六大陸周遊計画」のうち、「ユーラシア大陸横断」(ロンドン→イスタンブール→カルカッタ)のときに越えようと思ったのだ。
ダーダネルス海峡を越えて
ケサンからひと山越えるとエーゲ海が見えてくる。ふたたび山地に入り、見晴らしの良いポイントに出ると、右手にエーゲ海、左手にはマルマラ海とそれにつづくダーダネルス海峡が見えた。すごい光景だ。黒海とエーゲ海の間にはマルマラ海がある。マルマラ海の北側と南側はギュッとくびれ、2つの海峡になっている。北海峡がボスポラス海峡で南海峡がダーダネルス海峡になる。ともに欧亜の2大陸を分ける海峡だ。北からいうと黒海→ボスポラス海峡→マルマラ海→ダーダネルス海峡→エーゲ海になるが、ひとつづきの同じ海でも名前が変わると、胸がキューンと締めつけられるような思いがする。
ダーダネルス海峡の北側一帯は要塞地帯になっていた。黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡とダーダネルス海峡は世界の戦略上、きわめて重要な地点なのだ。たえず南へと目を向けるロシア艦隊の通過地点だからだ。
トラックに乗せてもらい、ダーダネルス海峡の町、エセバットに着く。海峡には鉛色の雲がたれこめ、寒風が吹き荒れていた。海峡は大荒れに荒れ、あちこちに白い波頭が立っていた。その向こうには、建物1軒1軒がはっきり見える距離に対岸のチャナカレの町があった。エセバットからフェリーでダーダネルス海峡を越え、チャナカレの町に渡った。小アジアへ。ヨーロッパ大陸からアジア大陸に渡ったのだ。