30年目の「六大陸周遊記」[039]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 15 エルサレム[イスラエル] → アテネ[ギリシャ]

聖地巡礼

 エルサレムはこの前来たときと同じように、ショルダーバッグを肩にかけ、カメラを持った欧米からの巡礼を兼ねた観光客でにぎわっていた。ツーリスト・インフォメーションでパンフレットをもらい、ぼくもにわかキリスト教徒になって聖地巡礼をした。

 最初にオリーブ山に行った。海抜800メートルほどだが、山というよりは丘である。城壁の東側にあるオリーブ山からは、エルサレムの市街地が一望できた。ダビデの時代から神を拝む場所だったということで、キリストと弟子たちとの語らいの場所でもあった。山の麓にはいくつもの教会。キリスト教徒にとってはそれぞれに由緒ある教会なのだろうが、それがわからないのがちょっと残念なことだった。

 旧市街には城壁のライオンズ・ゲート(セント・ステファンズ・ゲート)から入った。イスラム教の聖地の金色に輝くドーム・オブ・ザ・ロック(岩のドーム)とエル・アクサス・モスクがすぐわきにある。この道がビア・ドロローサ(悲しみの道)。刑場に引かれていくイエス・キリストが通った道だという。聖墳墓教会までの「悲しみの道」沿いにはキリストの処刑にまつわるいくつかの史跡があった。聖墳墓教会はイエス・キリストが十字架に張りつけられ処刑された場所。キリストの墓は礼拝堂のドームの下にあるという。

 エルサレムの歴史は気が遠くなるほど長い。ヘブライ語で「平和の基」を意味するエルシャライムに由来するというエルサレムの歴史は、今から3000年も前にダビデがイスラエル王国の都をここに定めた時から始まる。それ以来、繁栄と荒廃、再建の絶えることのない歴史を繰り返してきた。エルサレムはまた、「ダビデの町」とも「シオン」ともいわれる。

 シオンはユダヤ人の心のふるさと。城壁の南にあるオリーブ山よりもさらに小さなシオン山からきたという。2000年という歳月を越えて失われた祖国を再建しようというシオニズム。エルサレムに来てみると、そこにとてつもないほど濃く流れる民族の血というものを強く感じる。

 ユダヤ教徒にとっての一番の聖地、「嘆きの壁」にも再度、行った。ツーリスト・インフォメーションでもらった市内地図には「ザ・ウエスタン・ウオール(西の壁)」となっている。ユダヤ民族はこの壮大な壁をソロモン神殿の西壁と信じ、この壁の前で2000年以上もの長い間、ずっと失われた祖国を嘆きつづけている。

 最後にこの前と同じように、キリスト誕生の町、ベスレヘムにバスで行った。ここは紀元前10世紀ころのイスラエル王国第2代目の王、ダビデの故郷でもある。ソロモンはダビデの子。そんなベスレヘムの町をプラプラ歩き、エルサレムに戻った。

エルサレムに戻ってきた
エルサレムに戻ってきた
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
ベスレヘム
新市街のバスターミナルへ

 エルサレムからテルアビブに向かった日も、よく晴れ渡っていた。テルアビブからエルサレムに来たときは鉄道だったので、今度はバスにしようと思った。テルアビブ行きのバスは旧市街からではなく、新市街にあるセントラル・バス・ステーションから出ていた。その日も朝のうちは旧市街の城壁内を歩きまわり、新市街のバス乗り場に向かった。

 旧市街、新市街といっても、町が途切れ、はっきりと2つに分かれているわけではない。新市街は城壁の西側に広がっている。このあたりは現在のイスラエルが建国される以前は荒れはてた丘にすぎなかったという。

 城壁はヤッファ門から出た。そしてヤッファ通りを歩いていく。現在でもそうだが、この道は昔からヤッファ(テルアビブ)に通じる道だったという。それ式で、北のダマスカス門からの道はダマスカスに通じている。

 エルサレムの銀座4丁目的なキッカール・シオン(シオン広場)を通り、独立戦争記念広場を通り過ぎ、セントラル・バス・ステーションへ。波打つエルサレムの丘にはクネセット(国会議事堂)やヘブライ大学の建物群が見えた。

ユダヤ人とアラブ人

 セントラル・バス・セテーションに着くと、テルアビブまでの切符を買った。6ポンド80アゴルットだった。いくつもある乗場のうち、テルアビブ行きの乗場だけが混み合い、長い列ができていた。といっても本数が少ないのではない。次から次へとテルアビブ行きのバスは出発していく。長い列ができるのは、それ以上にテルアビブに行く乗客が多いということだ。

 座席がいっぱいになっても、バスにはさらに乗客が乗り込む。立っていてもかまわないようだ。それだから「なんとしても、このバスに乗るんだ」という人たちは列を崩し、かなり強引にバスに乗り込む。そんな中にあって、白い布を頭からたらし、黒い輪をその上にのせたアラブ人の中年の男の人だけは悠然としたもので、「なんで皆、あんなに急ぐのだろう。私は次のバスに乗り、テルアビブまでゆっくり座っていきますよ」と、まるで後姿でそういっているようだった。それはとるにたりない些細なことだけど、ぼくはそれがユダヤ人とアラブ人の違いを象徴しているように思えてならなかった。ぼくもそのアラブ人と同じように、1台、バスを待った。

 テルアビブ行きのバスは片側3車線のハイウエーを高速で走る。山々をどんどんと下り、地中海の海岸を目指した。その途中では流れるような霧がかかっていた。平地に下ると、果樹園のたわわに実ったオレンジが見えた。バスの窓ガラス越しにオレンジの香りが漂ってきた。

ユダヤ人の顔って?

 テルアビブに戻り、町の雑踏の中を歩きながら、ぼくは「ユダヤ人の顔って、どんな顔なんだろう」と考え込んだ。イスラエルにやってくるまでは、ユダヤ人の顔というのはなんとなく陰気で鷲鼻の魔女とか魔法使いのような顔を連想していた。しかし、イスラエルにやってきて、何人もの人たちに会うと、ユダヤ人の顔というものがまったくわからなくなってしまった。

 ロシアから来た人はロシア人みたいだし、イギリスから来た人はイギリス人みたいだし、モロッコやチュニジアから来た人たちは、ぼくの目ではアラブ人と区別できなかった。冗談半分なのだろうが、「キミがユダヤ人だといっても、この国では誰も疑わない。日本で生まれ、日本で育ったユダヤ人だと、そう思うだけだよ」といわれたこともある。

 イスラエルには100を超える国からユダヤ人が集まってきた。つまり、それだけ多くの国々の文化が、この狭いイスラエルの国に流れ込んできた。それら、混ざり合った文化が、よけいにユダヤ人の顔をわかりにくくしているようだった。

イスラエルを離れる

 いよいよ、イスラエルを離れる日がやってきた。ギリシャのアテネに向かうのだ。空港でのチェックは入国時とは比べものにならないほど厳しかった。ぼくの乗る飛行機はTWA機。8時15分発のTW841便だった。出発の2時間前までにはTWAのカウンターに来るようにといわれた。普通だったら、1時間前でいいのに…と思いながら、時間通りに空港に行った。

 遅れないでよかった。2時間はかかるはずである。出国の厳しい検査は荷物検査からはじまった。1点1点、すべて調べられた。アメリカ人観光客の中年女性はおみやげまで開けられて金切り声を上げて怒っている。ぼくの場合だと、とり終わったフィルムはテープを巻いてカンの中に入れておいたが、それらのフィルムは1本1本、すべてテープをはがしてチェックされた。それらの荷物は機内持込みではなく、飛行機に積まれる分なのである。

 次に機内に持ち込む荷物の検査。金属製のものはすべてひっかかった。小さなナイフは没収され、磁石は怪しいものでないか検査され、カメラはその場で1枚、カラ撮りさせられた。さらに1人づつ個室に入れられ、なんと服を脱がされ、体に武器となるようなものをつけていないかどうか調べられた。これだけ厳しいと、当然のことだが乗客とのトラブルも多く、あちこちから声を荒らげたやりとりが聞こえきた。

 最後に係官に、「この48時間以内に、アラブ人と親しく口をきかなかったか? 何か頼まれたことはないか? あずかったものはないか?」と聞かれ、長く厳しい検査は終わりとなった。

 入国時はキプロスのニコシア空港で調べられたものの、イスラエル側ではあまりにも簡単なチェックだったので、驚いたほどだ。それにひきかえ、出国時のこの厳しさは一体、何だ。普通は逆になる。TWA機だったからまだよかったものの、これがイスラエルのエルアル機だと、もっとひどいことになっていたという。

 アラブとの際限のない戦いがつづくイスラエル…。この国のおかれた難しい立場が、空港での検査に表れていた。その日のテルアビブの朝刊には、一面に写真入りで、ゴラン高原での戦闘が大きく報じられていた。

 テルアビブ郊外のロッド空港を飛び立ったTWAのジャンボ機は、あっというまに地中海の上空を飛んでいた。雲が多かったが、その切れ間から真っ青な地中海が見えていた。ギリシャに近づくと雲は切れ、エーゲ海に浮かぶ島々が眼下にあった。乾燥した茶色い島々。TWAのジャンボ機はテルアビブから2時間ほどでアテネ国際空港に着陸した。

テルアビブを飛び立つ
テルアビブを飛び立つ
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
眼下にエーゲ海の島々が見えてくる
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす
アテネを見下ろす