[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 14 テルアビブ[イスラエル] → エルサレム[イスラエル]
北のハイファへ
テルアビブを出発点にして南部イスラエルをまわったので、今度は北部イスラエルをまわる。テルアビブ中央駅から北のハイファ行きの列車に乗った。ハイファまでは約100キロ。料金は6ポンド40アゴルット。1イスラエルポンドは日本円の70円ほど。100アゴルットで1ポンドになる。
ハイファに着くと、町を歩きまわり、イスラエル最大の港を見る。そのあとで町を一望できる丘に登り、そこからハイファの市街地を見下ろした。その向こうには紺青の地中海が広がっている。ハイファ港や臨海工業地帯もよく見える。港外には何隻もの貨物船が停泊していた。
ハイファの町を歩きまわったところで、駅に戻る。列車でさらに北のナハリッヤまで行こうと思ったのだ。
2つのキブツ
ハイファ駅構内の片隅で腰を下ろし、地図を広げている時のことだった。突然、日本語で声をかけられた。驚いて顔を上げると、日本人の青年が立っていた。白いきれいな歯並びが印象的な人。その人は辻本義仁さん。福井から来たという。辻本さんは旅に出て長い。アフリカにも足を延ばしたという。今はキブツで働いており、ぼくにも来ないかと誘われた。
ぜひともキブツを見てみたいものだと思っていたので、彼の働いているハイファに近いヤグールのキブツに一緒に行く。そこで過ごした何日かは楽しい日々だった。ヨーロッパに空輸されるというグレープフルーツの収穫を手伝った。
辻本さんはキブツの人たちから「ヨシ、ヨシ」と呼ばれ、人気があった。女の子たちにも大モテ。そのおかげでキブツのいろいろな人たちと話すことができた。
辻本さんはもうしばらくキブツで働いたら、サハラ砂漠に行きたいという。夜遅くまで、暗い電気のもとで地図を広げ、2人でサハラの話をした。
ヤグールのあと、レバノン国境に近いエイロンのキブツに行った。そこには辻本さんに紹介された山口信博さんがいて、エイロンでも何日か、働いた。ここではバナナの収穫の仕事。5時30分起床、6時にトラクターに乗って農場へ。ひと仕事したところで朝食だ。朝食後、すぐに農場に戻り、昼まで働き、昼食後は午後3時30分まで仕事がつづく。
ヤグールとエイロンでキブツを垣間見たが、世界でも類を見ない「キブツ」という組織には驚かされることが多かった。
体験的キブツ考
キブツは日本語だと集団農場と訳されるが、実際にはあまり正確な訳ではない。ほとんどのキブツには工場があり、工業製品や工芸品が生産されており、それらの出荷額は農産物を上回っているという。
ぼくは組織というのは、日本の会社や役所、さらには軍隊のようにきちんとした上下階級があり、上から下への命令で動くものだとばかり思っていた。ところがキブツは違う。エイロンは小さなキブツだったが、ヤグールなどはメンバーが3000人を超え、日本だったら大企業の部類に入るような大組織だ。そんな大組織が階級とか、上から下への命令といったものなしで、キブツを構成している人たちの話し合いで動いていた。
キブツにはキブツを構成するメンバーのほかに、世界の各地から集まったボランティアの若者たちがいる。彼らは3ヵ月とか半年、1年という単位で働いている。日本人青年の数もキブツ全体ではかなりの数になる。ボランティアの青年たちは一緒になって働きながらキブツを知りたいという人が多いようだ。彼らの多くはキブツをユートピア的に見ているようだった。
また、1年とか2年といった長い旅をつづけている若者たちが、ちょうど渡り鳥が羽を休めるように、キブツに滞在していく例も多いという。キブツを流れる自由な雰囲気が、束縛を嫌い、自由奔放に世界を駆けめぐる旅人たちをひきつけ、またキブツの方にもそのような旅人を喜んで迎える素地があるようだ。
ボランティアの中には教師が多いように感じられた。キブツの教育制度は彼らの注目の的だそうで、それを実際に見、体験したいのだという。キブツの子供たちは生まれたときから親と離れ、団体生活を送り、男女一緒の生活をしている。
キブツの人たちはよく働く。べつにみんなよりも働いたからといって収入が多くなるわけではない。おいしいものを食べられるわけでも、自分の土地や家を得られるわけでもない。それではいったい何のためにと思ってしまうが、人間の労働というのは決して金銭だけに換算できるものではないということを教えてくれているかのようだ。
とにかくキブツはものすごい実験だ。そして、その実験が成功しているように見える。しかし、キブツのメンバーが3代目、4代目…になったときも、はたして今のような活力を維持できるのだろうか。私有の財産というものなしで、ほんとうに不満なくやっていけるのだろうか。教育が進んでも、農場や工場での単純労働に我慢してやっていけるのだろうか。キブツで生まれ育った者が、いったんキブツを離れたら、はたして生きていけるのだろうか。いろいろと考えさせられたイスラエルのキブツだった。
戦乱のゴラン高原へ
エイロンからはレバノン国境の山々に沿って東へ、戦乱のゴラン高原へと向かう。できればゴラン高原の中心、クネイトラまで行ってみたかった。しかしクネイトラの町は第4次中東戦争で徹底的に破壊され、死の町と化しているという。
イスラエルでのヒッチハイクは辺境地帯でも、そう難しくはない。なにしろ車が来れば乗せてくれる確率がきわめて高いからだ。レバノン国境を離れ、サファッドへ。ゴラン高原は近い。サファッドからヨルダン川の谷間へと下っていく。いまだに激しい戦闘のつづくゴラン高原。それに通じる道は軍事色一色に塗りつぶされ、戦車や装甲車、軍用トラック、連絡用のジープなどが仕切りなしに通り過ぎていく。
行く手にはゴラン高原の一番奥まった所に位置するヘルモン山が見えてきた。真っ白に雪化粧したヘルモン山は、およそ戦闘とは縁遠い、きれいな、なだらかな山の姿だった。その山麓ではイスラエル軍とシリア軍が停戦後も激しい戦いを繰り広げている。すでにこのあたりまで来ると、腹の底に響くような砲声が間近に聞こえてくるのだった。
道はまっすぐ北に延び、イスラエル最北のメトウリアへと通じている。地図を見ると、そこまで30キロ。ゴラン高原のクネイトラに通じる道はメトウリアへの道と分かれ、ヨルダン川を渡っていく。2本の道の分岐からは軍のトラックに乗せてもらった。うまくすると、ヨルダン川を渡り、クネイトラまで行けるかもしれないとおおいに期待した。その反面、不安も大きかった。戦闘に巻き込まれ、命を落とす危険性が大きかったからだ。
激しい砲声はより近くで聞こえるようになった。このところ連日のように、イスラエルの新聞には、ヨルダン川を渡ってやってくるゲリラ部隊との戦闘の記事がのっている。ぼくはすでに戦場に足を踏み入れていた。
ヨルダン川の手前に検問所があった。そこでは軍が車を1台1台、調べていた。ぼくもパスポートを調べられ、「これ以上先には、軍の特別な許可証がないと行けない」といわれた。残念だが仕方ない。それと同時に何か、ホッとした気分でもあった。
ゆるやかに波打つ丘陵地帯がゴラン高原へとつづいている。すでに春たけなわで、黄色や白の野花が一面に咲いていた。
海面下のガリラヤ湖
今度は南に下り、ガリラヤ湖畔に出る。ヘルモン山を水源とするヨルダン川は南に流れ、ガリラヤ湖に流れ込む。ガリラヤ湖から流れ出たヨルダン川は再び南に流れ、死海に流れ込む。ヨルダン川は内陸河川で全長300キロ。水の乏しいパレスチナでは、一番重要な、貴重な川になっている。
ガリラヤ湖はティベリア湖とも、キンネレテ湖ともいわれているが、パレスチナ北部のガリラヤ地方とともに、ガリラヤ湖はキリスト教とのかかわりが深い。キリストの奇跡には何度となくガリラヤ湖は出てくる。
死海と同じようにガリラヤ湖も海面下の湖だ。海抜はマイナス209メートル。淡水湖のガリラヤ湖はイスラエルにとってはきわめて重要で、ここからはるか南のネゲブ砂漠まで灌漑用の水が送られている。
ガリラヤ湖岸の道を南に行くと、湖周辺では一番大きな町のティベリアスに着く。湖畔では観光客が降り注ぐ春の日差しを楽しんでいる。この町の歴史はきわめて古い。2000年以上も前に町はでき、ローマ時代にはガリラヤ地方の首都だった。ユダヤ教の聖地で古代のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)や初期のユダヤ教のラビ(ユダヤ教の牧師)の墓などがある。
ティベリアスでガリラヤ湖を離れ、今度はキリスト教の聖地のナザレに向かう。湖から上の台地までは急な登り坂がつづく。途中でシーレベル(海抜0m)の標識を通過。ティベリアスからナザレまでは35キロほど。ナザレはガリラヤ地方の中心都市でアラブ系のキリスト教徒も多く、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが混在していた。ナザレは聖母マリアの故郷で、キリストが幼年時代を過ごした所だ。
「オマエはどっちが好きか?」
ナザレからは再度、エルサレムを目指す。ヨルダン川に近いベイシェイムの町外れで野宿したが、明け方の冷え込みはきつかった。目をさましたときは夜明けの冷え込みで手足は氷のように冷たくなっていた。
まだ暗いうちに起き、ヨルダン川西岸の道を南へ、エルサレムへと歩いた。やがて空が明るくなり、ヨルダンの山々から朝日が昇る。道端でパンとオレンジの朝食を食べていると、農作業用のトラクターが止まり、乗せてくれた。アラブ人の青年が運転していた。彼は「このへんの土地はアラブのものだ。それをイスラエルが占領しているけど、きっといつか、アラブの手に取りかえしてやる」と息巻いている。
アラブ人には何度となく聞かれたことだが、彼にも聞かれた。
「オマエはアラブが好きか? イスラエルが好きか?」
アラブ人を前にして、「イスラエルが好きだ」とはいえないので、「アラブが好きだ」といっておく。
それをいうたびに南部アフリカでの会話を思い出す。黒人と話すときは黒人に合わせ、白人と話すときは白人に合わせる。それと同じようなものだ。
イスラエルでひとつおもしろかったのは、アラブ人にはいったい何度、「アラブが好きか、イスラエルが好きか」と聞かれたかしれないが、ユダヤ人に同じような質問をされたことは1度もない。それは土着性の強いアラブ人と、世界中を流浪したことによって、洗練されたスマートさを身につけたユダヤ人の違いなのか。
ユダヤ教の安息日
ヨルダン川の西岸をエルサレムに向かった日はサバット。ユダヤ教徒にとっての安息日だ。ユダヤ教徒にとっては金曜日の夜から土曜日の夜までが安息日になっている。サマリア地方のヨルダン川西岸地帯は人も少なく、交通量も少ない。さらにサバットとなると、さらに交通量が少なくなるのでヒッチハイクは難しくなるものと思われた。歩き疲れてバス停で止まったとき、本数は少ないがエルサレム行きとアカバ湾のエイラート行きのバスがあったので、エルサレム行きのバスが来たらそれに乗ろうと決めた。
そんなときに1台の車が止まってくれた。日本製のスバル。幸運なことにエルサレムまで行く車だった。運転しているのはユダヤ人。「今日はサバットだから、ほんとうは働いてはいけないのだけど…」と、彼はまっさきにいった。ユダヤ教徒にとっての安息日というのは、日本人にとっての日曜日とはわけが違う。30歳ぐらいのその人は、頭にちょこんと、丸い小さなユダヤ教徒特有の帽子をのせている。
安息日に仕事をしてしまったというその人は車が大好きだ。世界中の車を知っている。車の本や雑誌を読むのが一番の趣味だという。
「日本の自動車はほんとうにすばらしい。私はマツダが欲しいのだけど、イスラエルにはスバルしかないので、それでスバルを買ったんだよ。早く、日本のほかのメーカーの車も買えるようになるといいんだけど…」
彼はトヨタもニッサンもホンダも知っていた。しかし、それらの日本のメーカーはアラブとイスラエルの市場を天秤にかけ、より大きな市場のアラブを取ったのだという。イスラエルに輸出すれば、アラブ側でボイコットされてしまうからだという。
ヨルダン川が見えた!
道の両側にはサマリアの乾燥した風景がつづく。いつ、ヨルダン川が見えてくるのだろうと、心待ちにしていた。ついに、ヨルダン川が見えてきた。深い谷をつくって流れるヨルダン川。しかし、谷は深いが川の流れ自体は小さなもの。とても大河と呼べるような川ではなかった。谷間はうっすらと緑に包まれ、所々で春の野花が咲いていた。
ヨルダン川の流域はさすがに緊張していた。谷間には2重、3重にバリケードが張りめぐらされ、要塞があり、軍の警備にも厳しさが感じられた。それでもジェリコからエルサレムへの道は全く自由な通行で、検問所は1ヵ所もなかった。
ヨルダン川の谷間にあるジェリコの町からエルサレムへと一気に登っていく。シーレベルの標識を通過し、アラブ人の町を通り過ぎるとエルサレム。旧市街のダマスカス門の前で降ろしてもらった。