常願寺川(15)
岩峅寺の集落を歩きまわると、ふたたび雄山神社の前立社壇に戻った。
雄山神社の社殿は常願寺川のすぐ脇、小高い段丘の上に建っている。岩峅寺は扇状地の扇の要に位置している。
雄山神社からは常願寺川に降りる階段がついている。その階段を下って常願寺川の河原に降りてみた。対岸の段丘は立山橋や地鉄の鉄橋あたりでストンと落ち、その向こうには富山平野が広がっている。富山平野は春霞でボーッと霞んでいた。
河原を流れる水路を見た。それを見た時、「あ、これだな」と、思った。
今回の常願寺川に来る前、富山地誌に目を通したが、それには常願寺川の合口用水(ごうくちようすい)についての記述があった。
さっそく雄山神社の社務所で聞いてみると、やはりその合口用水で、「常東合口用水」というのが正式な名称だという。雄山神社のすぐ隣に用水の管理事務所があり、そこで話を聞いた。
常願寺川流域の富山平野は全国でも有数の水田率の高い平野で、水田は耕地面積の9割を超えるという。しかし合口用水が完成する以前は洪水に襲われたり、旱魃に見舞われたりして農民はずいぶんと水で苦しめられた。
常願寺川流域では、古くから川の水を取り入れて稲作をしてきた。記録によると、1640年にはすでに灌漑用水として常願寺川の水を取り入れている。しかし1854年2月の「安政の大地震」で大きな被害を受けた。立山連峰の鷲岳から鳶岳にかけての山の斜面が崩落し、崩れ落ちた岩石は真川支流の湯川をせき止めた。その結果、立山の山中に湖ができた。
その湖は豪雨と春の雪どけ水で氾濫し、堰が決壊した。常願寺川は傾斜の急な川なので、大量の岩石と土砂が下流に流された。堤防は決壊し、流域の平野は泥の海と化した。
常願寺川は「安政の大地震」を境にして大きく変わった。おびただしい岩や砂を流すので、次第に河床が高くなり、しょっちゅう氾濫する暴れ川になった。常願寺川の治水の歴史は、この押し流されてくる膨大な岩石、土砂との戦いの連続であった。
常願寺川には用水の取入口がいくつもあったが、洪水のたびに取入口は破壊された。
明治になって、県はオランダ人技術者を招いて対策を求めた。その結論は各用水の取入口をすべて閉鎖し、上流の安全な地帯で全用水の所要量を一ヵ所から取り入れ、幹線水路から各用水に分水するというもの。それが常願寺川の合口用水計画の出発点で明治24年のことであった。
水は農民にとっては命綱である。そんな水にからんだ問題なので、合口用水計画はなかなか進展しなかった。明治の末になってやっと常東合口用水組合と常西合口用水組合が組織された。
工事が本格化したのは戦時中のことで、合口用水の幹線水路が完成したのは、何と計画から70年近くもたった昭和28年のことだった、
常東用水の事務所を出ると、合口用水を見ながら歩いた。川上に向かって歩いていくと、きれいなアーチを描く水路橋が見えてくる。水路橋は人も渡れるようになっている。その2キロほど上流に、横江の堰堤がある。ここで取り入れられた合口用水は、水路橋の手前で常東合口用水と常西合口用水に二分される。水路橋で常願寺川を渡っていくのは常西合口用水だ。