[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 21 ジュバ[スーダン] → カンパラ[ウガンダ]

1割の可能性に賭ける

 スーダン南部の中心地ジュバに着いたときはうれしさと同時に、「やっと着くことができた…」という、ホッとした気持ちもあった。白ナイル水運も起点コスティからじつに13日にも及ぶ長い船旅だった。

 エジプトのアスワンからずっと一緒だったイギリス人旅行者のリチャードと、久しぶりにしっかりと大地に足を踏み降ろした快い感触を存分に楽しんだ。すぐさま市場に行き、バナナやパパイヤの果物を買って食べ、お茶を飲み、煮豆を間にはさんだパンを食べた。

 ジュバに来たということは、さらに大きな難関の入口に立ったということを意味した。ウガンダ国境のニムレからウガンダに陸路で入国するのは我々、外国人にとってはほとんど不可能といわれていたからだ。ウガンダがスーダンからの外国人の陸路入国を認めていないからだ。反対にウガンダから陸路でスーダンに出国するのは比較的、容易だといわれていた。

 ぼくは国境を通過できる可能性は1割とふんでいた。その1割の可能性に賭けるつもりだった。ニムレまで行ってみて、どうしてもダメなら、ジュバに戻るしかない。そしてジュバから飛行機でウガンダのエンテベに飛ぶ、それが残された唯一の方法だ。

 しかし、飛行機は使いたくなかった。理由は何としても陸路でスーダン・ウガンダの国境を越えたいからだ。それともうひとつは切実な問題で、飛行機代を払うのは、身を切られるほど辛いことだった。

白ナイルにかかる橋

 ジュバの町は白ナイルの西岸に位置している。国境のニムレに通じる道は対岸から出ているという。ということは対岸に渡るフェリーがあるはずだ。それを信じてジュバを出発した。

 朝のうちは晴れていた。ところが急に曇りだし、強風が吹きはじめ、嵐のような天気になった。あまりにも急激な天気の変わりように恐れをなしたほど。やがて雨が降りだした。あっというまに土砂降りになり、あわてて近くの民家に逃げ込んだが、ズブ濡れになってしまった。

 雨宿りした家で聞いた話では、もう白ナイルのフェリーは出ていないという。前の年に白ナイルにかかる橋が完成したからだという。その橋に通じる道を教えてもらった。

 雨はなかなかやまない。昼過ぎになると風がおさまり、やっと雨も小降りになった。雨宿りさせてもらった家の人たちにお礼をいって白ナイルにかかる橋に向かって歩いていく。その橋の手前には橋を警備するポリス・ボックスがあった。ジュバに入る車、ジュバから出ていく車のすべてがここで停まり、チェックを受けなくてはならなかった。

「ここにしよう」

 リチャードにそういって、ポリスボックスのわきに立った。そこでニムレに向かう車を待った。ポリス・ボックスの警官は楽しい人で、我々の話し相手になってくれた。奥さんがお弁当を持ってくると、「一緒に食べよう」といってわけてくれた。

 白ナイルの橋を渡る車の数はきわめて少ない。1時間に3、4台といったところだ。橋を渡ると道は二又になり、右がニムレ、左がマラカルに通じている。だが、警官にいわせると、「(マラカルへの道は)ひどい悪路」だとのことで、ジュバ〜マラカル間を行き来するトラックはきわめて少ないという。

 夕方、そのマラカルからトラックが1台、やって来た。すぐあとにはなんと、ケニアのモンバサから2台のトラックがやって来た。警官はケニアのナイロビ、モンバサからはけっこうトラックが来るという。そのときぼくはスーダン南部はすでに東アフリカの経済圏に組み込まれていることを知った。

 ジュバからインド洋の港町モンバサまでは3、4日で行けるという。その間は約1700キロ。道の大半は舗装路。ところがジュバから紅海の港町ポートスーダンまで行くとなると大変なことだ。トラックのみというのはほとんど不可能に近いので、船と鉄道を使うことになる。ジュバからコスティまでは白ナイルの船、そしてポートスーダンまでが鉄道になる。ポートスーダンまでは早くても半月、下手すると1ヵ月はかかってしまう。これではジュバがモンバサと結びつくはずである。

国境に到着

 その日はとうとう国境のニムレに行くトラックは来なかった。夜はチェックポスト近くの警察で泊めてもらった。白ナイルの河畔に近いからなのだろう、おびただしい蚊、蚊、蚊…。ひと晩中、蚊にやられっぱなしでよく眠れない。朝、起きたときは頭がフラフラした。前日の天気がウソのような良い天気で、空はスッキリと晴れ渡っていた。やがて白ナイルの対岸から朝日が昇り、川面はまばゆいばかりに輝く。そんな白ナイルの河岸に行き、ナイルの水で顔を洗い、やっとさっぱりした気分になった。

 日が高くなると急激に気温が上がり、木陰に逃げ込んだ。そんなときに国境のニムレからさらにケニアのナイロビまで行くというトラックが来た。運転手はウガンダ側の国境でのトラブルをすごく恐れており、ニムレのスーダン側の国境事務所までだったら、乗せてくれるという。タダというわけにはいかず、1人1ポンドでのせてもらうことになった。

 お世話になった警官にお礼をいって別れ、トラックの荷台に登る。いよいよニムレに向けて出発だ。白ナイルにかかる橋を渡り、マラカルへの分岐点を通り過ぎる。トラックはサバンナの中の道を南下。ときどき道にはカモシカが飛び出してくる。

 夕方、ニムレに着いた。国境は5時に閉まるということだが、まだ若干、時間があった。スーダン側の国境事務所の係官は我々のスーダン出国に難色を示した。

「もし、スーダンを出国しても、ウガンダには入国できない」
 と、予期した通りのことをいう。

 それでもかまわないからと、強引に出国の手続きを頼み込むと、
「ここにはイミグレーションは置いていない。ジュバのイミグレーション・オフィスでパスポートに出国印をもらって来なさい」
 といわれた。ジュバには戻りたくなかったので、国境の役人たちには「お願いします」を連発し、ついに出国の手続きをしてもらうことができた。

ウガンダに入れない…

 翌朝、度胸を決めて、ウガンダ国境に向かって歩きはじめる。うまくウガンダに入国できるかどうか、胸がドキドキしてくる。まさに一発勝負だ。道はなだらかな下り坂。やがて小さな橋を渡った。その橋がスーダンとウガンダの国境だった。

 ぼくたちは懸命になって歩きつづけた。ザックは完全にダメになっていて、頭の上にのせたり、肩でかついだり、胸でかかえたり…、いろいろな持ち方をしながら歩いた。マンゴーを籠に入れたオバチャンとすれ違う。これ幸いにと、パンと交換して手に入れたマンゴーを道端で食べた。

 2時間ぐらい歩いただろうか、軍のキャンプ地に着いた。そこでチェックを受ける。パスポートを調べられ、書類にサインする。すると、何とも信じられないことに、軍人は「行ってもよろしい」というではないか。リチャードと歓喜の声を上げた。我々は不可能といわれていた陸路でのウガンダ入国に成功したのだ。

 そこからはウガンダ北部の中心地グルまでバスが出ている。しばらく待つとバスが来た。バスに乗り込み、座席に座るとドッと疲れが出てくる。目をあけていられずに深い眠りに落ちていった。

 目をさましたのは、誰かに肩をゆすられた時だった。目の前には警官が立っていた。バスはアティアック村に着いたのだ。見覚えのある風景。ここには1968年に来たことがある。その警官にバスを降りるようにといわれた。さらに、スーダンに戻るようにといわれたのだ。頭をガーンと殴られたような衝撃。

「ウガンダに入るのには2つの方法しかない。ひとつはエンテベ空港に飛行機で。もうひとつはケニアから鉄道または道路で入る方法だ。ウガンダはそれ以外のどこにもイミグレーション・オフィスを置いていない」

 警官はそれだけをいうと、あとは「ジュバに戻りなさい」の一点張りで、とりつくしまもなかった。リチャードはジュバに戻り、飛行機でエンテベに飛ぶという。だがぼくは何が何でも国境を突破する覚悟だった。

密入国

 リチャードとはアティアックで別れることにした。彼はスーダンのジュバに戻っていく。ぼくはといえばウガンダへの別ルートでの入国を試みるつもりだった。なんとしても国境を突破するのだ。エジプトのアスワンから1ヵ月あまり、ずっと一緒だったリチャード…。いざ別れるとなると、いいようのない寂しさに襲われる。「また、どこかで会おう」といって、何度も握手をかわした。

 1968年にアティアックに来た時は、ここから西に行き、ナイル川を渡った。そしてモヨからザイール国境の一帯をまわり、ナイル川西岸地方(ウエスト・ナイル)の中心地アルアまで行ったのだ。

 アティアックで道は2本に分かれる。1本は北へ、スーダン国境のニムレに通じている。もう1本がモヨからウエスト・ナイルのアルアに通じる道で、ぼくはこの道を行くことにした。たとえ途中で検問があっても、自分1人だったら、なんとかくぐり抜けられる自信があった。

 アティアックからジュバに通じる道をリチャードと一緒に歩く。さもさもジュバに戻るふりをし、しばらく歩いたところで今度はほんとうにリチャードと別れ、ぼくは草原を横切り、モヨに通じる道に入った。モヨに向かって歩いていると、後ろから追いかけられているような恐怖感を感じた。ぼくはウガンダに密入国したのだ。

第一関門突破!

 軍の車が通りかかり、乗せてくれた。車はトヨタのランドクルーザー。軍人に何か聞かれるのではないかとビクビクしたが、たわいもない世間話程度の会話ですんだ。その車はモヨまで行くところだった。アティアックからモヨまでは約100キロ。

 アルバート・ナイルをフェリーで渡った。ビクトリア湖から流れ出たナイル川はビクトリア・ナイルと呼ばれ、キョーガ湖に入る。キョーガ湖を流れ出ると、マーチソン滝を流れ下り、アルバート湖に入る。そこから流れ出るナイル川がアルバート・ナイルになる。

 アルバート・ナイルを渡ると、山がちな風景になった。スーダンとの国境の山々だ。坂を上り下りしながら夕方、モヨに着いた。ここから北に行く道はスーダンのカジョカジに通じている。

 軍人と別れ、モヨの町を歩いた。何とも幸運なことに、この町で唯一人のアラブ人医師に出会った。その夜は彼の家で泊めてもらった。そのおかげで警察の目からも逃れることができた。エジプトのカイロ出身のアラブ人医師は2年間の契約でモヨに来たという。アミン大統領にも面会したそうで、盛んにアミンをほめていた。

「ヨーロッパではアミン大統領のことをさんざんけなしているが、ほんとうは立派な大統領だ。ウガンダ国民のことを心底、思っている」

 翌朝、アルアに向かった。モヨの町の出口には警察の検問所があった。そこではパスポートを調べられる。ウガンダの入国手続きをしていないので、当然のことだが、パスポートには入国印がない。警官にはそれをいわれた。

「ウガンダにはケニアから入りましたよ。ケニアのキターレからエルゴン山の北側を通って。その道にはイミグレーションがなかったので、そのままウガンダに入り、ここまで来ました。これからアルアまで行って(首都の)カンパラに向かいます」
 と、ぼくは脂汗の流れ出るような思いでいった。

 エルゴン山の北側のルートは1968年の時に通っていたのでケニア側にもウガンダ側にもイミグレーションのないことを知っていた。またぼくのぶ厚くなったパスポートもすごく幸いしたようだ。何冊にもなったパスポートの各ページには各国のビザや入国印、出国印がびっしり押されているので、それらをいちいちチェックしてはいられない。

 警官はぼくのいったことを信じてくれたようで、質問は終わった。そのあとはウガンダをどう思うかとか、日本というのはどんな国なんだという話になり、無事に第一の関門を突破した。

第2関門突破!

 モヨから2台の車に乗せてもらい、昼過ぎにユンベに着いた。そこでも警察に調べられた。警官にいろいろと聞かれている最中にバスが通りかかった。アルアまで行くバスだという。ぼくが「あのバスでアルアまで行きたい」というと、警官は「かまわないから乗れ!」といってぼくの手を引っ張って警察の建物を飛び出し、「オーイ」と叫びながらバスを追いかけてくれた。そのおかげでバスはすこし先で停まった。こうして無事にアルア行きのバスに乗れたのだ。

 ユンベからアルアには2ルートの道がある。1本は近道、もう1本はザイール国境の近くを通る遠い道である。バスは遠い方の道を通っていく。ウエスト・ナイルは北のスーダン、西のザイールと、2つの大国に囲まれ、東はナイル川が流れているのでウガンダ内でも小独立国的な存在だ。

 アルア行きのバスに乗れたのはいいが、ひどいオンボロバスだった。シートのクッションはボロボロで、スプリングがむき出しになっている。エンジンは今にも破裂しそうなものすごい音をたてている。ハンドルも思うようには切れないので、カーブにさしかかると何度となく道を飛び出しそうになる。さらにオンボロバスはしょっちゅう停まった。そのたびにラジエターに水を入れ、エンジンオイルを足した。

 途中で同じ会社のバスと出会った。そのバスも超オンボロ。エンジンがかからないということで道の真ん中に停まっていた。ロープで引っ張り、なんとかエンジンをかけようとするのだが、そのたびにロープが切れてしまいエンジンはかからない。とうとう諦め、故障したバスを置き去りにして出発した。

 ザイール国境のすぐ近くの山道では、なんと今度はブレーキがきかなくなった。ブレーキの使い過ぎで、過熱したのが原因だという。乗客、全員が降ろされる。運転手は空になったバスをエンジンブレーキだけで走らせて下の川まで下り、川の水でブレーキを冷し、また走り出した。

 やっとアルアに近ずいたと思ったら、なんと助手は「早く、降りろ!」と大声でわめきはじめる。驚いたことに車体の下からもうもうと煙が噴き上げている。助手は消火器を持って外へ飛び出す。車内は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。誰もが窓から荷物を外に放り投げ、我先にと出口に殺到する。窓から出ようと体を突っ込んだものの、出るに出られず、宙ぶらりんになった人もいる。足をバタバタさせているが、どうしようもない。

 運転手と助手の懸命な消火作業の結果、エンジンのまわりをこがした程度ですんだ。もうすこし発見が遅れていたら、間違いなくバスはまる焼けになっていた。我々は間一髪で助かったのだ。バスの運転手はなんとも冷静な表情で、「ブレーキが焼けたんだな。過熱して、その熱でオイルか何かに火がついたのだろう」と、まるで人ごとのようにいった。

 まる焼けにはならなかったが、バスはもう動かない。乗客はみんな重い荷物をかかえ、アルアに向かって歩いていく。幸いなことに、火が出たのはアルアの町の入口に近いところで、30分も歩けばアルアの中心街に着いた。これでぼくは第2の関門も突破した。

カンパラ行きのバスに乗る

 アルアはウエスト・ナイルの中心地だけあってにぎやかな町。バスターミナルからは首都のカンパラ行きのバスがまさに出ようとしていた。カンパラまでは35シルだという。それに乗りたかったが、ウガンダのお金を持っていなかった。

 アメリカ・ドルのトラベラーズ・チェックをバスターミナル近くの商店で換えてもらおうと思ったが、現金ならばいいけどチェックはダメだと、どこでも同じようにいわれた。ザイールの通貨、ザイールが残っていたのを思い出す。数えてみると3ザイールあった。今度はザイールを換えてくれないかと聞いてまわった。その結果、雑貨屋で3ザールが36シルというレートで交換してもらった。きわめて悪いレートだが、今はそんなことはいっていられない。

 36シルを握りしめ、心臓が破裂するかのような思いで懸命に走り、バスターミナルに戻った。ありがたいことにバスの運転手はぼくのことを待ってくれていた。車掌に35シルを払い、バスに乗り込むと、すぐさま走り出した。満員の乗客で通路に座っている人もいる。ぼくも同じように通路に座り込んだ。

 バスは夜通し走り、明け方にはカンパラに着くという。

「どうか、途中で検問にあいませんように。無事にカンパラに着けますように」
 と、祈るような気持ちだった。

首都カンパラに到着だ!

 さすがカンパラ行きの急行バスだけあって速かった。もうもうと土煙りを巻き上げて砂利道を突っ走る。天気が悪く、今にも雨が降りだしそうな空模様だった。夕日はまったく見えず、いつのまにか外は暗くなっていた。

 バスはナイル川の河畔の町、パクワチに着いた。夜も遅い時間だったが、物売りが殺到した。残った1シルでナイル川でとれた魚のフライとイモを買って食べた。出発。パクワチにはナイル川にかかる橋ができていた。橋の手前で警官がバスに乗り込み、車内をチェックした。警官とは目があったが、ニコッと笑って顔で挨拶すると、何もいわれずにそれですんだ。バスはナイル川にかかる橋を渡る。ナイル川を渡りきったとき、ぼくはこれでカンパラまで行けると確信した。

 バスはカバレガ・ナショナルパークに沿った道を走る。そしてカンパラとグルを結ぶ幹線道路に入った。ナイル川のカルマ滝下の橋を渡る。白い水しぶきをあげ、荒れ狂って流れるナイル川が夜目にもはっきりと見えた。

 舗装路になり、バスのスピードは一段と上がった。途中、1度休憩しただけで、あとはノンストップで走りつづけた。そして夜が白々と明けるころ、ついにカンパラのバスターミナルに到着した。座席に座れず、なんともしんどい夜行バスだったが、そんな辛さを一気に吹き飛ばすカンパラへの到着だった。

カンパラのバスターミナル
カンパラのバスターミナル
カンパラのバスターミナル
カンパラのバスターミナル
カンパラの中心街
カンパラの中心街