30年目の「六大陸周遊記」[044]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 20 ハルツーム[スーダン] → ジュバ[スーダン]

青ナイルと白ナイルの合流点

 ハルツームはスーダンの首都。青ナイルと白ナイルの合流点に町はひらけている。ハルツームから青ナイルを渡ったところがハルツームノース、ハルツームから白ナイルを渡ったところがオムダーマンになる。オムダーマンとハルツームノースの間には、ナイル川にかかる橋。エチオピアから流れてくる青ナイルと、ウガンダから流れてくる白ナイルが合流してナイル川になる。

 ハルツームの官庁街は青ナイルの河畔にある。イギリス人旅行者のリチャードと、その一角にある内務省に行った。スーダンの南部地方に入る許可をもらうためだ。スーダンは1956年にイスラム教徒の多い北部とキリスト教徒の多い南部が一緒になって独立したが、政権は北が握った。その結果、南北の対立が激化し、内戦に突入してしまう。南部のゲリラ組織は北部の政府軍と血みどろの戦闘をくりかえし、わずか10数年の間に数十万人もの死者を出した。スーダンの内戦は大国の介入もなく、戦闘地域が辺境の南部地方だったこともあり、世界ではあまり取り沙汰されることはなかった。

 その内戦がやっと終結し、スーダンにはつかのまの平和が訪れた。その結果、スーダン南部に入る許可証も比較的、簡単に出してもらうことができた。しかしスーダン南部の問題が解決したわけではない。紛争の根は依然として残されたままだ。それほど北部と南部では人種も文化も違う。

スーダンの首都ハルツーム
スーダンの首都ハルツーム
白ナイル水運の起点

 内務省で南部に入る許可証をもらうと、ぼくとリチャードはハルツーム駅から列車でコスティに向かった。コスティは白ナイル水運の起点。ハルツーム、コスティ間の白ナイルにはジェベル・アウリア・ダムがあるので、ハルツームまで船では来られない。そのためコスティが白ナイル水運の起点になっている。

 ハルツーム駅を出ると、列車は青ナイルに沿った肥沃な農地の中を行く。広大な綿花畑が地平線のかなたまで広がっている。ここはスーダンの心臓部といってもいいゲジラ地帯。ゲジラとはアラビア語で島を意味する。青ナイルと白ナイルにはさまれたこの一帯を島にみたて、「ゲジラ」といっている。ゲジラ地帯では青ナイルと白ナイルの水をつかって大規模な灌漑農業を行っているが、青ナイル流域の方がより灌漑農業が発達している。

 ゲジラ地帯の中心地、ワドメダニを通り、セナールへ。ここには青ナイルのセナールダムがある。セナールで列車は青ナイルを離れ、白ナイルのコスティへと向かっていく。ハルツーム駅を14時30分に発車した列車は、遅れることなく、定刻どおり6時30分にコスティに着いた。ハルツームからコスティまでは鉄道だと400キロほど。道路だと白ナイル沿いに300キロほどである。

 列車は白ナイルの船着場近くに止まった。別に待合室のようなものはない。列車を降りた大勢の人たちが、船着場の前でゲートが開くのを待っていた。

コスティの船着場
コスティの船着場
白ナイルにかかる橋(コスティ)
白ナイルにかかる橋(コスティ)
白ナイルの船

 首都ハルツームではミニストリー・オフ・ユース(青少年省)に行き、ハルツームからウガンダ国境に近いジュバまでの切符割引証を出してもらうのに成功した。その結果、ハルツーム駅でハルツーム→コスティ(列車)→ジュバ(船)の割引切符を買うことができた。料金は2ポンド68ピアスタ。日本円では2000円ほどだった。

 白ナイルの船着場が開くと、乗客は我先にと船に突進する。大きな荷物をかかえた家族連れも多い。ぼくとリチャードも負けずに急いだ。船の2階に上がり、床の上にシートを広げ、その上に寝袋を敷いた。こうして自分たちの場所を確保した。6隻の、底が平な船を鉄製のワイヤーでくくりつけ白ナイルを上っていくのだが、船は超満員の乗客だった。

 人いきれも手伝って、猛烈な暑さだ。大粒の汗がドクドクと流れ落ちる。10時の出航だというのに、なかなか船は出ない。

「これじゃ、ナイルの奴隷船だ」
 と、ぼくたちはため息をついた。

 むせかえるような真昼の暑さの中、やっと船はコスティの河港を出る。簡単な施設しかない船着場を離れたときはヤレヤレと救われたような気持ちだった。それもつかのま、乗り遅れた人たちがかなりいるとのことで、船は船着場に戻った。

 その人たちを乗せ、もう一度、出航したときは「今度こそ、ほんとうの出発だ!」と喜んだ。ところが船はまた戻ってしまう。6隻のうち1隻の船が浸水しだしたという。なんということ。結局その日は出航できずにコスティで泊まった。

恐怖の一夜

 夜になっても気温は下がらず、いぜんとして汗が流れ落ちる。その夜の恐怖感は、一生忘れられない。何が怖かったかというと、足の指だった。左足の中指がエチオピアにいるころからかゆかった。ちょうどしもやけにやられたようなかゆさ。そのうちに指の先は黒ずんできて固くなった。かゆくて我慢できなくなると、右足で踏みつけたりした。

 白ナイルの船の中はムンムンして、暑くて寝られたものではない。おまけに左足の指のかゆみも気になりだした。リチャードに懐中電灯を借り、じっくりと見てみた。バッグの中から針を取り出し、黒ずんだ個所に刺してみる。するとスーッと刺さり、膿が出た。今度はカミソリの刃で固くなった個所を取り除く。するとその下はすっかり腐っていた。腐っているからなのだろう、カミソリの刃で削っても痛みは感じない。何とも気持ち悪かったのは、その中にいくつもの虫の卵があったことだ。

 「このまま指から足へと腐ってしまうのだろうか…」
 と、たまらなく不安になった。

 コスティからジュバまでは10日以上かかる。その間に何かあっても、船が出てしまえばどうすることもできない。ぼくは化膿しやすい体質で、すぐに膿んでしまう。もしカミソリの刃で削った個所が化膿したら…と思うと、オチオチ寝てもいられない。ジュバに行くのを遅らせて、コスティの病院に行こうかと本気で思ったりもした。

 翌朝、目をさますと、まっさきに傷口を見た。それほどひどくはなっていない。赤チンをつけ、ガーゼを取り替え、「このままジュバまで行こう!」と決めた。最悪の場合は途中のマラカルで船を降りることにした。マラカルはコスティ、ジュバ間の唯一の町。長旅をつづけていく中で一番怖さを感じるのは、自分の健康を損なったときだ。いっぺんに気が弱くなり、悪い方へ、悪い方へと思いをめぐらしてしまうものだ。

白ナイルの船での毎日

 翌朝、船はやっと出発した。白ナイルを上っていく。コスティを出てまもなく、白ナイルにかかる鉄橋にさしかかる。鉄道と道路、併用の鉄橋だ。スーダン領内の白ナイルの橋はこのコスティとハルツーム、それとジュバの3本しかない。そのほかハルツームの南のアウリアにはジェベル・アウリア・ダムがあるが、車はその上を通ることができる。

 船は橋の手前で止まった。やがて橋が開く。橋を通りすぎたところでまた止まり、なかなか動かない。あまりにもチンタラチンタラした船の動きにイライラしてしまう。頭上の太陽は強烈で、船内は猛烈な暑さ。汗が滝のように流れ落ちる。午後になってやっと船は動きだした。それがほんとうのコスティ出発だった。ゆうゆうと流れる白ナイル。川上からはとめどもなく水草が流れてくる。

 ぼくたちの隣りにはマラカルまで行くジェームスがいた。ミッション系の学校で先生をしているという。彼の話によると、1971年3月のアディスアベバでの和平会議が成功し、南北間の戦闘は停止したという。だがジェームスは「北と南が一緒になってもうまくやっていけるはずがない…。独立して我々だけの国をつくりたい」と熱い口調でいった。

「カラー(肌の色)とリリジャン(宗教)の違いはどうしようもない」ともいった。

 ジェームスはヌエル族だったが、彼にはヌエル語を教えてもらった。「こんにちは」がマラグムワ、「ありがとう」がシェリアン、「さよなら」がショワ、「ジュバに行く」がワッフ・ジュバ、「日本から来た」がファイベン・ヤパーニ、「いくら?」がヨウカディ…といった具合だ。

 白ナイル流域に住むヌエル族やディカ族、シルック族のナイル系の民族は背が高く、スラッとしている。身長が2メートルを超える人もそう珍しくはない。それが国境を越え、ザイール東北部の密林地帯には身長が140センチ前後のピグミー族が住んでいる。アフリカというのは、何ともおもしろい大陸だ。

 ぼくたちの近くには休暇をとってジュバに帰る軍人のサビットとカミスムーサもいた。彼らにはよく食事をご馳走になった。雑穀の粉を練ったアシーダを洗面器のような器に入れ、魚などの入った汁につけて食べる。そんな船での毎日だった。

マラカルに到着

 白ナイルを上る。南下するにつれて暑さはやわらぎ、しのぎやすくなってくる。コスティでは、あまりの暑さにとてもではないが寝袋などには入れなかった。夜、昼とわず、汗が流れ落ちた。それが南下するにつれ、赤道に近づくにつれて夜は寝袋に入って寝られるようになった。赤道というと暑いというイメージが強いが、アフリカの場合、暑い赤道はソマリアぐらいなものだ。それよりももっと北、北緯12、3度ぐらいから北回帰線にかけてのあたりが一番、暑い。

 コスティを出た船はいくつもの駅に寄っていく。駅といってもべつに駅らしい建物はない。川岸に船をつけ、板を渡して乗客は乗り降りするのだ。

 コスティを出てから4日目、大きな野火を見た。原野が一面に燃え、白っぽい煙が空を覆っていた。まるで野火から逃れるかのように、数百頭の牛を連れた遊牧民が北に向かっていった。その日の午後、雲が出た。久しぶりに見る雲だ。エジプトのカイロを出発してからというもの、快晴の連続で、雲を見ることはなかった。

 コスティを出てから5日目、船はマラカルに着いた。コスティとジュバの間にある唯一の町。ジェームスはここで降りた。マラカルには半日停まるとのことで、船を降り、町を歩いた。心配された足の指も大分よくなっている。病院に行く必要もなさそうだった。

白ナイルに落ちる夕日
白ナイルに落ちる夕日
白ナイル流域の牧畜民
白ナイル流域の牧畜民
白ナイル流域の牧畜民
白ナイル流域の牧畜民
マラカルの町
マラカルの町
白ナイルの船に乗る人たち(マラカル)
白ナイルの船に乗る人たち(マラカル)
白ナイルの大湿地帯、サッド

 マラカルを過ぎると、支流のバハル・エル・ガザルが合流する地点を過ぎ、やがて世界でも最大級の湿地帯、サドに入っていく。行けども行けどもパピルスとヨシの茂る大浮草地帯がつづく。薄紫色の花をつけたヒヤシンスのような水草が途切れることなく流れてくる。川幅は狭くなる。流れが何本にも分かれているからだ。ワニやカバの姿をたびたび見かける。

 イギリス人の歴史家トインビーは『ナイルとニジェールの間に』(新潮社・永川玲二訳)でサドのとてつもない大きさを次のように書いている。

「サドという地名は『防柵』を意味する。サド・アル・バールはダーダネルス海峡をみおろす関門要塞であり、地中海の敵国艦隊からイスタンブールを守っている。いま私が通過しつつあるサドは沼地による防柵だ。それは一連の障害物(沼地と密林と砂漠)によって、ネグロ・アフリカを北アフリカから隔離している。この3つの障害物の中でも、おそらく一番通りにくいのは沼地だろう…」

「ナイル川流域の沼地は途方もなく大きい。南の入口のジュバから北の出口のマラカルまでの汽船の旅は、クイーン・メリー号で大西洋を横断するのと同じ時間を要するのだ。『のろいね』とおっしゃるかもしれない。『だって地図ではかると、ジュバからマラカルまでは直線距離にして700キロもないじゃないの』。たしかにそのとおりだが、私たちの乗ったタゴーグ号は船尾にスクリューがついているから、まっすぐサドを突っ切るわけにはいかない。サドが開けてくれるままに水路を辿るしかないから、実際のコースは700キロどころか1000キロ近い。パピルスのジャングルを通る水路はまるで大蛇のように、よじれて、まがる…」

「『それなら1000キロということにしよう。しかし1000キロだって大西洋の広さとくらべたら何でもないじゃないの?』とおっしゃるかもしれない。大西洋横断航路の船長たちよ、タゴーグ号で1000キロのサドを航行してごらんなさい、ちょっとした気分転換ができるでしょう。それぞれ大きさの違う4隻の屋形船を連れて大西洋航路に乗り出した汽船があるでしょうか? そのうち2隻を荷かごの要領で両脇にくっつけ、あとの2隻は前に浮かべて押していかねばならない。大西洋航路の汽船が両岸につかえて横向きに立ち往生してしまう危険をおかしたことがあるでしょうか? 大西洋の汽船に、喫水線以下わずか60センチで風の神に対抗する勇気があるだろうか? 雨期に入ると、さえぎるものとてないサドを吹き荒れる風は、広大な海を渡る風におとらないくらい激しい。タゴール号を操作するのに較べれば、クイーン・メリー号の操縦はおそらく児戯にひとしい。大西洋は凶暴な野性においてサドには遠くおよばないのだから…」

 さらにトインビーは、
「スーダンは広大で変化にとむ。ジャジラ地方はハルツームの先端で合流する白ナイルと青ナイルにはさまれた地帯で、現在は何マイルにもわたって見わたすかぎり灌漑された綿花畑が続いている。コルドファン地方の広大な平原と、高原の多いダルフル地方は約束された土地だ。南部3州には果てしない沼地にパピルスが密生しているから、地球上の空腹な人間の数が2倍、3倍とふくれあがったときには当然ここで、排水と開墾がおこなわれるに違いない」
 とも書いている。

 サドに入って5日目、船はボルという村に着いた。ボルを過ぎると、風景は大きく変わる。人一人いないサッドは終わり、集落が点在するサバンナに変わる。全裸の人たちが多くなった。愉快だったのは、しばらく船を追いかけてきたカバだった。水の中にもぐったり、プクーッと水面に顔を上げたりして船を追った。

 コスティを出てから12日目、初めて遠くに山影を見た。乗客たちは「ジュバはあの山の近くだ」という。軍人のサビットとカミスムーサはジュバに近づき、喜んでいた。だが、1ヵ月もの休暇をもらいながら、ジュバに滞在できるのは2、3日でしかないという。首都ハルツームから故郷に帰るだけでも半月近くかかってしまうからだ。

 コスティを出てから13日目、船はついにジュバに着いた。1400キロあまりの、白ナイルの船旅だった。

白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの船着場
白ナイルの大浮草地帯のサドを行く
白ナイルの大浮草地帯のサドを行く
白ナイルの大浮草地帯のサドを行く
白ナイルの大浮草地帯のサドを行く
サドを抜け出てボルに到着
サドを抜け出てボルに到着
サドを抜け出てボルに到着
サドを抜け出てボルに到着
ジュバ近くの白ナイル
ジュバ近くの白ナイル
ジュバ近くの白ナイル
ジュバ近くの白ナイル