[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 22 カンパラ[ウガンダ] → ナイロビ[ケニア]
スーダン人ジョンとの出会い
ウガンダの首都カンパラのバスターミナルに到着し、バスを降りると、後ろから声をかけられた。
「よかったら、家に来ないか」と。
バスで一緒だったスーダン人青年のジョン。ナイル河畔のパクワチに着いたとき、すこし彼と話したことがあった。
ジョンには「疲れただろうから、家でぐっすり眠ったらいい。うまいものをご馳走するから」といわれ、彼の好意を受けることにした。タクシーで彼の家に行く。国会議事堂近くの、カンパラでは1等地にあった。もともとはインド人商人が住んでいたとのことで、部屋がいくつもあるような大きな家。庭も広い。
「なんでキミを家に誘ったか、わかるかい。キミがえらいと思ったからだ。アルアからカンパラまでずっと立ちつづけだったよね。これがアメリカ人やヨーロッパ人のツーリストだったら、文句ばかりいったに違いない。ところがキミはひとことも文句をいわず、じっと我慢していた」
ジョンには気恥ずかしくなるようなほめ言葉をいわれたが、とんだところで人に見られていたものだ。発車間際のバスに飛び込んだのだから仕方ないことだったが、バスの中で座席に座れなかったのはぼく1人だった。しかし、ずっと立ちつづけたわけではなく、通路に置いたザックの上に座ったこともある。
シャワーを浴びてさっぱりしたところで、彼の妹さんがつくってくれた朝食をいただいた。そのあとは昼近くまで、死んだように眠った。なんとも気持ちの良い目覚め。昼食は市内のレストランでご馳走になり、食後は彼の車でカンパラを案内してもらった。
1968年に来たときと較べると、あまりにも大きな変化に驚かされた。カンパラの商業を牛耳っていたインド人、パキスタン人がきれいさっぱりといなくなっていた。そのかわり商店のショーウィンドーがからっぽ状態というほどの極端なモノ不足に見舞われていた。夕方、彼の会社に連れていってもらった。金物の卸問屋だ。追放以前はインド人が経営していたという。インド人がいなくなったばかりに、ジョンのような若い人でも一躍、会社の経営者になれるのだ。とくにアミン大統領の出身地に近いスーダン南部出身のスーダン人は優遇されていた。
ナイルとの別れ
ジョンの家でひと晩泊めてもらい、翌朝、カンパラにあるイミグレーションのヘッドクオーター(本部)に出頭した。パスポートに入国印をもらうためだ。そこではスーダンからウガンダに密入国したとき、調べられた警官に説明したのと同じことをいって入国手続きをし、パスポートに入国印をもらった。これで正規のルートでウガンダに入ったことになる。
パスポートに入国印をもらったところで、町をプラプラ歩いてカンパラ駅へ。列車でケニアのナイロビまで行くのだ。「カンパラ→ナイロビ」間は700キロあまりだが、料金は安かった。19シル90セント。日本円で800円ほど。さらにウガンダではインド人追放後、経済活動は停滞し、ブラック・マーケット(闇レート)では1シルが30円前後になっていた。闇レートで換算すると600円ほどでしかない。
列車は16時00分発のモンバサ行きの普通列車。3等の切符売場の窓口には長い列ができていた。いつになったら切符を買えるのだろうか…と、半ば諦め気味。すると外国人特権とでもいうのだろうか、駅員はぼくの姿をみつけると部屋の中に入れ、切符を売ってくれた。長い列をつくって待っている人たちには「悪いなあ」という気持ちでいっぱいだったが、駅員には「ありがとう」とお礼をいった。
モンバサ行きの列車は定刻通りにカンパラ駅を発車する。発車してまもなく、ウガンダのイミグレーションの係官が列車内をまわり、ケニアに行く人たちに書類を渡していく。それを回収しがてら、パスポートに出国印を押してまわった。
列車はウガンダの緑濃い風景の中を走る。バナナやコーヒーが栽培されている。森林地帯が見える。やがてナイル川にかかる鉄橋を渡った。
エジプトのカイロを発ってからというもの、赤道直下のこの地点まで、ずっとナイル川の流れと一緒だった。全長6700キロ。世界最長の大河、ナイル。ブルンジ、ルワンダの山岳地帯を水源としカゲラ川となってビクトリア湖に流れ込み、ビクトリア・ナイル→アルバート・ナイル→バハル・エル・ジェベル→白ナイルと名前を変えながらハルツームでもう一方の大きな流れの青ナイルを合わせ、スーダン、エジプトの砂漠地帯を北流し、肥沃なナイル・デルタをつくり、地中海に流れ出る。そんな、ずっと見つづけてきたナイル川との別れであった。
列車はビクトリア湖から流れ出る幅広いナイル川を渡り、ジンジャ駅に着いた。
ナイロビに戻ってきた!
午後4時にカンパラ駅を出た列車は夜遅く、国境の町トロロに着いた。トロロ駅を出発しても、とくに列車内で検査されることもなかった。カンパラを出たときにパスポートに出国印をもらったが、それがすべてだった。ウガンダーケニア間の出入国はこのように簡単なもので、ケニア側の入国手続きも、車内でパスポートにポンと入国印が押されるだけだった。
ケニアに入ったところで、猛烈な睡魔に襲われ、車内での入国手続きが終わると深い眠りに落ちていった。うっすらと夜が明けかかったころに目がさめた。まだ明けきらない空には星がまたたいていた。
やがて夜が明け、空全体が明るくなり、列車の進行方向に朝日が昇った。エルゴン山がよく見える。ケニア・ウガンダ国境の4000メートルを超える山。こうして無事にケニアに戻ってきたことを祝って、車内のビュッフェでちょっと豪華な朝食にした。コーンフレーグとトースト、ゆで卵、ベーコン、ソーセージ、それとデザートのグレープフルーツ。食後にコーヒーが出た。それで8シル50セント。残ったウガンダのシリングを混ぜて払おうとしたら、「ここはケニアなので」ということで、ウガンダシリングは受け取ってもらえなかった。
ケニアに入って最初の大きな町、エルドレットに着く。すでに標高2000メートルを超えている。エルドレットを過ぎると、さらに高度を上げ、標高2750メートルの最高地点を越える。そこはグレート・リフト・バレー(大地溝帯)の西側の壁。最高点を過ぎたところで赤道を越え、北半球から南半球へ。ひんやりとした寒々しい赤道だ。
列車は山をどんどん下っていく。山肌を曲がりくねって下っていくので、2度、3度と赤道をまたぎ、赤道上にある、その名も「イクエーター(赤道)」という名前の駅に着いた。かなり下ったので、その分だけ気温は上がった。
カンパラを出てからちょうど24時間後、午後4時、ナクール駅に着いた。ナクールを過ぎると、グレート・リフト・バレー内の大草原の中を列車は突っ走る。車窓からはナクール湖やエレメンテイタ湖、ナイバシャ湖を見る。きれいな曲線を描くロンゴノット山も見る。日が暮れたころ、列車はグレート・リフト・バレーの反対側、つまり東側の壁を昇っていく。ナイロビ駅に到着したのは午後9時。70日ぶりに戻ってきたナイロビだ。
「ナイロビ発の旅」、第4弾目のプラン
佐藤さん(第25回参照)のお宅に戻る。自分の居場所に帰ってきたかのような安堵感をおぼえる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、奥さんに日本食の遅い夕食をつくっていただいた。それから何日か佐藤さんのお宅に滞在した。
その間にナイロビ発の第4弾目となる旅のプランを考えた。佐藤さんのおかげで、ナイロビを中心とした旅を自由自在に考えられるのは、なんともありがたいことだった。
ナイロビ発の第4弾目ではアラビア半島のイエーメンに行きたかった。オーストラリアのパースで買った「パース→ロンドン」間の飛行機のチケットのうち、まだ「ナイロビ→アディスアベバ」間が残っていた。それを使い、ナイロビからアディスアベバに飛び、紅海のアッサブに行き、船で北イエーメンのモカに渡るのだ。そして北イエーメン、南イエーメンとまわり、アデンからソマリアのベルベラに船で渡り、陸路でナイロビに戻ってくるという計画だ。
しかし、その計画にはいくつかの問題点があった。最大の難関は北イエーメンと南イエーメンの国境。両国の関係はきわめて悪く、陸路での国境越えはほとんど不可能だといわれていた。次はビザの問題。ナイロビには南北イエーメンの大使館も領事館もなかった。ソマリアの大使館はあったが、ビザは本国紹介で、申請してから1ヵ月はかかるといわれた。そこで、南北イエーメンの国境は強引に突破しよう、南北イエーメンのビザはエチオピアのアディスアベバで取ろう、ソマリアのビザは南イエーメンのアデンで取ろうと決めた。
ナイロビの休日
ナイロビ発の第4弾目の旅に出発する前には、佐藤さんには高原の町、ニエリに連れていってもらった。佐藤さんは木材、マッチ、食品の日本資本とケニア資本の合弁会社を経営し、ニエリには木材会社があった。ニエリはナイロビの150キロほど北にあり、ケニア山とアバデア山にはさまれたきれいな町である。木材工場を見学したあと、アバデア山へとつづく山地の植林地帯を見せてもらった。日本の春を思わせるようなポカポカ陽気だった。
佐藤さんには「カソリ君、たまには観光旅行もいいだろう」ということで、ナイロビ近郊のナイロビ・ナショナルパークに連れていってもらった。そのあとグレート・リフト・バレー(大地溝帯)の展望台、さらにはナクール湖にも連れていってもらった。
佐藤さんのおかげでなんとも優雅な、心に残る旅になったし、疲れ切った体を休めることもできた。