[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 8 カレミ[ザイール] → ムソマ[タンザニア]
タンガニーカ湖の船旅
ザイールのカレミからタンザニアのキゴマまでのタンガニーカ湖の船は1ザイール7マクタ。日本円だと600円ほどだった。船には乗客のほかに荷物も積まれたが、その中には銅も見られた。キゴマから鉄道でダルエスサラームまで送られ、海外へと輸出される。
ぼくと伊藤さんは乗船すると甲板にシュラフを敷き、自分たちの場所を確保した。そのあとで世界地図を広げ、ここにも行きたい、あそこにも行きたいと夢を広げた。
出港間際になって、もう1人の日本人が乗り込んできた。東京の渋谷さん。彼はキサンガニから飛行機でカレミに飛び、幸運にもギリギリでこの船に間に合った。日本人旅行者のパワー爆発といったところで、外国人の乗客は我々、日本人だけだった。渋谷さんは1等船室。個室で4つのベッドがある。別に文句もいわれないだろうと、ぼくと伊藤さんは渋谷さんの部屋にもぐりこませてもらった。
ジーゼルエンジンがうなりを上げ、「ウルンディ号」はカレミ港を出港した。1等船室の窓からタンガニーカ湖を眺めた。
渋谷さんはヨーロッパからアルジェリアのアルジェに渡り、サハラ砂漠を越え、ナイジェリア→カメルーン→中央アフリカと通ってザイールに入った。中央アフリカの首都バンギからザイールのカレミまでが一番、きついルートだったという。渋谷さんの行き先はケニアのナイロビ。そこから日本に帰るという。3人とも目的地がナイロビなので一緒に行くことにした。
翌朝は夜明けとともに目をさます。すぐさまタンガニーカ湖を見る。やがて朝日が昇り、湖面はキラキラと黄金色に輝く。タンザニア側にはゆるやかな丘陵がつづいている。反対のザイール側は水平線。陸地の影はなかった。
10時、キゴマ港に到着。カレミから17時間の船旅だ。キゴマ港には大勢の乗客を乗せたCFLの「センドゥウェ号」が停泊していた。ブルンジのブジュンブラを出たあと、ザイールのカルンドゥに寄ってキゴマに来たもので、これからザイールのカレミに向かうという。
タンザニアへの入国。税関ではけっこう厳しく荷物をチェックされたが、たいしたトラブルもなく、タンザニアの地を踏みしめた。
やられた…
キゴマの町を歩きまわり、インド人の商店でザイールのザイールをタンザニアのシリングに両替してもらうと市場に行った。そこでトウモロコシの粉を練ったウガリと肉汁の食事。これで1シリング(約40円)だ。さらにバナナ5本と油で上げたタンガニーカ湖でとれた魚を買って食べた。
腹が満たされたところでキゴマ駅に行く。タンザニアを横断してインド洋岸のダルエスサラームまで鉄道が通じている。キゴマは終着駅なのだ。
タボラまでの切符を買った。22シル(シリング)50セント。ぼくたちはタボラで乗り換え、ビクトリア湖畔の町、ムワンザに向かうつもりだった。「キゴマ→タボラ」間の列車は1日1便。駅のホームは広々としている。
18時45分発のダルエスサラーム行きの列車に乗り込んだ。座席に座り、まだまだ時間があると、のんきにかまえていたら、なんと定刻よりも1時間前にジーゼルカーは走り出した。びっくりしたが、何ということはない、ザイールとタンザニアの間には1時間の時差があった。つまり列車は定刻通りに出発したのだ。
キゴマあたりの夕方の6時45分というと、まだ薄明るかった。列車の窓から顔をのぞかせると、遠ざかっていくタンガニーカ湖の輝きが見えた。
外が暗くなった。景色が見えなくなり、退屈になると、ぼくたちはトランプをした。小額の賭トランプ。小額でも賭けると熱中するものだ。ぼくの隣には渋谷さんが座った。彼はバッグを足元に置いたが、ちょっぴり不思議そうな顔をしてぼくに、「今、バッグを蹴った?」と聞く。バッグが動いたような気がしたという。ぼくは「いや、べつに」と答えておいた。そんなささいな出来事はすぐに忘れ、我々はトランプに熱中した。
車内の乗客は多かったが、それほどの混み方ではなく、デッキのそばに数人、通路に数人、座席に座れない人がいる程度だった。
列車がカリウアという小さな駅に着いたとき、渋谷さんは「あ、バッグがない」と鋭い声を上げた。おまけにぼくの脱いでいた靴もなくなっていた。シートの下はがらんどうで、ぼくたちの座席の後ろはデッキだ。
「やられた…」
と思ったが、もうあとの祭りだ。悔やまれてならなかったのは、渋谷さんが「バッグを蹴らなかった?」とぼくに聞いたとき。あのとき、もっと注意しておけばよかった…。そのバッグの中にはカメラと写しおわったフィルム、さらには旅日記が入っていたという。列車にはレールウエー・ポリスが乗っていた。寝ているのをたたき起こし、事情を話した。背の高い太った警官は親身になって渋谷さんのバッグを探してくれた。ぼくたちの座席のまわりにいた人たちに聞いてまわった。しかし盗んだ人を誰も見ていなかった。
次に警官と一緒になって全車両を見てまわった。警官は不審と思える人に対しては荷物検査までしたが、渋谷さんのバッグは出てこなかった。きっと犯人は列車がカウリア駅に着いたとき、列車を飛び下りたのだろう。
列車が次の駅に到着すると、警官は駅舎からカウリア駅に電話して、すぐにあたりを捜索するようにと命令した。列車が動きだすと、警官は渋谷さんからバッグを盗まれたいきさつを詳しく聞き、それを調書に書いてまとめた。
翌朝、5時45分にタボラ駅に着いた。警官に連れられて駅舎に行き、カウリア駅に連絡をとったが、犯人らしき人物も渋谷さんのバッグも発見できなかったという。渋谷さんが気の毒でならなかったが、どうしようもない。また渋谷さんも諦めきったような表情でさばさばしていた。
日本青年協力隊の望月さん
朝の8時ごろまでタボラ駅の片隅でごろ寝したあと、朝食にする。駅構内の売店でチャイ(お茶)を飲みながらサモサを食べた。タボラ駅を出ると、町をブラブラ歩いた。ぼくたちはビクトリア湖畔の町、ムワンザに列車で向かうことにしたが、出発時間は夕方の6時。それまでタボラで時間をつぶさなくてはならなかった。
ぼくは列車の中で靴を盗まれ、裸足だったが、このままナイロビまで裸足で行くことにした。よけいな出費は1円でもしたくなかった。
タボラは南緯5度。赤道に近いだけあって頭上の太陽はギラギラと照りつける。舗装路は焼けただれ、足の裏があっというまにヒリヒリと痛くなる。みんなでソコニ(市場)に行った。タボラ周辺は乾燥しているからなのだろう、市場にでまわっている農作物は少なく、また値段も高かった。
ソコニを出、町の中心部を歩いていると、カーボーイハットのような帽子をかぶり、ホンダのオートバイに乗った日本人がぼくたちの前で止まった。日本青年海外協力隊の望月さん。彼はよかったら家に来ないかといってくれた。
ムワンザ行きの列車が出るまで、まだかなりの時間があったので、ぼくたちは望月さんの家に行くことにした。望月さんはオートバイで帰り、しばらくすると車でぼくたちを迎えにきてくれた。ぼくたちは望月さんにいわれるままに、予定を変更した。ひと晩、やっかいになり、翌日の列車でムワンザに向かうことにした。
夕食はぼくたちがつくった。ご飯を炊き、肉とジャガイモとキャベツを煮込み、中国製の醤油で味つけした。さらにキャベツを塩もみし、ピリピリ(唐辛子)を混ぜた。ぼくにとっては1週間ぶりの食事らしい食事だ。夜は遅くまでトウモロコシからつくったコニャギという酒をいただきながら話しつづけた。
翌朝はタボラから40キロほど離れた農場に連れていってもらった。そこではトウモロコシやサツマイモ、キャッサバなどが栽培されていた。望月さんは農業技術者でいろいろとアドバイスをしていた。
その農場はウガンダからの難民を収容していた。タンザニアはウガンダの前大統領のオボテを支持していたが、農場で働いているウガンダ人を近い将来、本国に送り返し、アミン政権を倒すのがタンザニアのねらいだという。
夕方の6時、ぼくたちは望月さんの見送りを受け、ムワンザ行きの列車に乗った。蒸気機関車だ。夜汽車はビクトリア湖を目指して走りつづけた。翌朝7時にビクトリア湖畔の町、ムワンザに到着した。
ビクトリア湖の船旅
ビクトリア湖はタンザニア、ケニア、ウガンダの3国にまたがる大きな湖。面積は6万9000平方キロでカスピ海、スペリオル湖に次いで世界第3位。九州と四国がすっぽりと入ってしまう。そのビクトリア湖を周航している船がある。タンザニアのブコバ、ムワンザ、ムソマ、ケニアのキスム、ウガンダのポートベル、ブカカタを結んで湖を一周している。
ムワンザ駅に着いたぼくたちは、すぐさまビクトリア湖のムワンザ港に急いだ。ムワンザからムソマまでビクトリア湖の船で行くことにしたからだ。ムワンザ→ムソマ間は道路もあるが、アフリカ最大の湖を船で渡ってみたかったのだ。
タンガニーカ湖のカレミの例があるので、息せき切って港に急いだが、船は翌日の午前中に出るという。それを聞いて拍子抜けしたが、それではと、ビクトリア湖の湖岸を歩いた。あちこちに大岩が見られるきれいな景色だった。
そのあとで町をぶらついた。目抜き通りの商店は大半がインド人の店。インド人の経済力を見せつける光景だ。ソコニ(市場)で食事し、港に戻り、1等の待合室で昼寝した。ありがたいことに待合室を自由に使ってもいいよといってくれたのだ。
2時間以上も、たっぷりと昼寝した。夕方、町に出て食事し、港に戻ると、1等の待合室で早々と寝た。翌朝、ソコニでウガリと汁の朝食を食べ、船内用のバナナを買って港に戻った。8時過ぎにはムソマに向かう「ビクトリア号」がブコバからやってきた。真っ白な船体。9時過ぎに3等の切符を買って乗船。ムソマまでは200キロほどだが、1人9シル30セント、日本円で400円ほどだった。
10時過ぎに出港。ムワンザ港を離れ、「ビクトリア号」はビクトリア湖を進んでいく。とにかく大きな湖だ。まるで海を行くよう。日本の湖とは桁違いの大きさで、琵琶湖のちょうど100倍の大きさになる。
甲板で上半身裸になり、日光浴。見下ろす湖の色は薄い緑色をしていた。「ビクトリア号」はビクトリア湖に浮かぶ島の中では最大のウケレウェ島のわきを通過していく。
1日中、甲板で日光浴したので、日に焼けた肌がさらに焼けた。日差しの強さは強烈。空はきれいに晴れ渡っていた。夕日が見事だった。大きな太陽がビクトリア湖に浮かぶ島影に落ち、夕日を受けて、小さく波立つ湖面は紅に染まった。
「ビクトリア号」がムソマ港に着いたのは薄暗くなってからのことだった。港の出口にはずらりと露店が並んでいる。湖でとれた魚を油で揚げたものを売っている。1匹5セント。3円ほどだ。それを何匹か買い、別の露店のオバチャンからふかしたイモを買い、魚をおかずにして食べた。「ビクトリア号」はすっかり暮れたムソマ港に汽笛を残し、ケニアのキスム港に向かって出港していった。