30年目の「六大陸周遊記」[031]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 7 カミナ[ザイール] → カレミ[ザイール]

出発の日の朝…

 カミナでいろいろと情報を得た結果、ぼくは陸路でのキンシャサ行きを断念することにした。カミナからムブジマイ→カナンガ→イレボ→キクウィットと通ってザイールの首都キンシャサまで行くつもりにしていたが、コルウェジからカミナまでの道の状況からみて、ヒッチハイクはきわめて難しいとは思っていた。さらにカミナで得た情報ではイレボ→キクウィット間の道は通れないという。イレボ→キンシャサ間はカサイ川→コンゴ川の船で行くのが普通のコースなので、その間の道はひどい状態だという。そこで予定を変更し、カミナからタンガニーカ湖畔のカレミまで鉄道で行くことにした。

 出発の日の朝、クリスティーンとエラノールはパンや肉、バナナ、アボガド、オレンジ、キューリ、トマト…と食料を袋にどっさり詰めて、ぼくに持たせてくれた。つかのまの2人との出会いだったが、2人との別れには何ともいえない寂しさを感じた。

「また、いつの日か、どこかで会えるといいね」といって2人と握手をかわした。2人はアメリカでの住所を書いてくれ、さらに「ここも訪ねたらいい」といって何人かの友人たちの住所も書いてくれた。

時間の観念の違い

 午前中はカミナの町を歩いた。中心街は寂れている。ほとんどの大きな店はギリシャ人の経営だったが、モブツ大統領がギリシャ人の追い出しを決めてからというもの、ギリシャ人は店をたたんで、続々とカミナを離れていった。

 14時、カミナ着の列車に間に合うように、カミナ駅に行った。駅は列車を待つ人たちでごったがえしていた。カミナから終点のカレミまでは4ザイール66マクタ。日本円だと3000円近くにもなる。

 列車は午後2時になってもカミナに着かなかった。3時になっても4時になってもまだ来ない。日本だったら、1時間も2時間も待たされたら、乗客たちは怒りだし、きっと「おい、どうしたんだ」と駅長室に怒鳴り込むような人が出るだろう。しかし、ザイールのカミナ駅で列車を待つ人たちは違っていた。イライラしたり、怒っているような人は誰もいない。

 日本とザイールでは、常識が違うし、時間の観念が違うのだ。日本の常識では列車は時刻表通りに来るもの。誰もがそう思っているし、実際に時刻表通りに列車が来る。だからたまたま遅れると腹がたつのだ。さらに日本では「時は金なり」で、日本の社会が時間との競争の上に成り立っているという事情がある。

 ところがザイールは日本とは違う。カレミ行きの列車は2、3時間ぐらいの遅れは日常茶飯事なのだ。みんなが列車は遅れるものだと思っているので、遅れたからといって誰も怒ったりはしない。「時は金なり」ではない世界なのだ。

 カレミ行きの列車を待っている日本人はぼくだけではなかった。もう1人、伊藤勇二さんという福井の青年がいた。伊藤さんはヒッチハイクで東アフリカをまわっていた。ザンビアからザイールに入り、ルブンバシからカミナまでは列車で来た。これからケニアのモンバサまで行くというので、「旅は道連れ」で一緒に行くことにした。

ザイールの列車の旅

 予定よりも3時間も遅れ、夕方の5時にカレミ行きの列車がやってきた。降りる人が多くいたので座席に座れた。ぼくたちの前にはオバチャンが2人、座った。到着がさんざん遅れたので、すぐにでも出発するのかと思っていたら、今度はなかなか出ない。出発しないまま6時になり、7時になった。外はすでに真っ暗だ。8時になって列車が動きだしたときは伊藤さんと思わず「万歳!」を叫んだ。

 車内のあちこちでにぎやかな話し声や笑い声がしていたが、夜がふけるにつれて静かになっていった。車輪の振動が子守歌になり、深い眠りに落ちていった。

 目をさましたときは、まさに朝日が地平線から昇ろうとするときで、水分を含んだようなしっとりとした赤味の強い朝日の色だった。列車が駅に止まるたびに、ものすごい数の物売りが押し寄せる。「カランガ! カランガ!」と叫びながら南京豆を売る人。ナナス(パイナップル)、モコ(キャッサバ)売りの声も聞こえる。焼きトウモロコシも売っている。それらは列車の料金が高いのとは対照的に、どれもがきわめて安い。すべてリクタ(約6円)で買えた。両手いっぱいの南京豆がリクタ、小さなパイナップルがリクタ、焼きトウモロコシがリクタ…という具合。ここではまさにザイールの(というよりもアフリカの)二重構造の社会を目の当たりにした。ザイール(約600円)の世界とリクタ(約6円)の2つの世界だ。

 炭売りもやってきた。前の座席に座っているオバチャンたちは洗面器1杯の炭を買った。それを窓を通して受け取るものだからたまらない。炭の粉が目の前で舞い、いやっというほど炭の粉が目に入った。オバチャンたちはそのあと、袋の中から肉を取り出す。猿の肉だった。それをナイフで切ると、ぼくたちにもくれた。猿肉はこのあたりでは一番のご馳走で、鶏肉のようなさっぱりとした味わいだった。

カレミに到着!

 昼前に列車はコンゴ川上流のルアラバ川を渡り、カバロ駅に着いた。ここで鉄道は2本に分かれる。1本は東へ、タンガニーカ湖畔のカレミに通じている。もう1本は北へ、カンゴロを経由し、キサンガニの南のキンドゥに通じている。

 カバロを過ぎ、ニュンズ駅を過ぎると、夕暮れが迫ってきた。平原はゆるやかな起伏のつづく丘陵になり、西の空を茜色に染めて夕日が沈む。14夜の明る月明かりの中を列車は走った。列車はタンガニーカ湖から流れ出るルクガ川に沿って走る。月明かりに照らされたルクガ川の流れがキラキラと光り輝いていた。終点のカレミに着いたのは22時。カミナから26時間の列車の旅だった。

船が出た…

 カレミ駅で降りるとぼくたちはタンガニーカ湖畔の港に急いだ。船の出港時間は23時だと聞いていた。その船というのはタンガニーカ湖対岸のタンザニアのキゴマに寄港し、タンガニーカ湖北端近くのザイールのカルンドゥまで行くもの。ぼくはその船でカルンドゥまで行き、キブ湖南端のブカブからキブ湖北端のゴマへ、そこからはビルンガ火山群の活火山、ニーラゴンゴ(3470m)の山麓を通ってウガンダに入国するつもりでいた。

 ところが息を切って港に着くと、それらしき船はない。岸壁に横づけされている軍の船に明かりが灯っているので声を掛けてみると、軍人は「夜の7時に船は出たよ」という。次の船は10日後だという。張り詰めていた糸がプッツンと切れたかのようで、急に全身の力が抜け、ガックリときた。列車の5時間の遅れが痛かった…。

 声を掛けた軍人は親切な人で、ぼくたちに船に上がれという。こうしてひと晩、ザイール海軍(湖軍?)の船上で寝かせてもらった。船上で聞くタンガニーカ湖の打ち寄せる波の音が心地よかった。

世界第7位のタンガニーカ湖

 タンガニーカ湖は南北に細長い湖で、面積は九州をすこし小さくしたほどの3万2890平方キロ。世界ではカスピ海、スペリオル湖、ビクトリア湖、アラル海、ヒューロン湖、ミシガン湖に次いで世界第7位の大きさになる。じつに深い湖で最大深度は1435メートル。これはバイカル湖に次いで世界第2位になる。膨大な量の真水をたたえるタンガニーカ湖だ。

 タンガニーカ湖はザイール、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ザンビアの5ヵ国に囲まれている。主な港としてはザイールのモバ、カレミ、カルンドゥ、ブルンジのブジュンブラ、タンザニアのキゴマ、ザンビアのムプルングがある。湖岸最大の都市はブルンジの首都のブジュンブラ。タンガニーカ湖は大地溝帯内にある湖で北にアルバート湖、エドワード湖、キブ湖と大湖がつづく。

カレミの町で

 次の日はカレミの町を何するでもなしにぶらついた。船の件であれこれ聞いてみると、3、4日もすれば、タンザニアのキゴマ行きの船が出るという。その情報を得ると、ぼくは予定を変更し、タンザニアのキゴマに渡ることにした。

 カレミの町はすっかり寂れていた。目抜き通りのヤシ並木の両側は商店街になっているが、まるで廃墟のように空家になっている。開いている店でも、店先に商品はほとんど見られない。これもギリシャ人追い出しのせいなのだろう。町の中央には破壊され、ガラスの飛び散った動かない時計台があった。カレミはタンガニーカ湖の船運を支配するCFL(CHEMINS DE FER DES GRANNDS LACS)の本拠地だが、そんな感じをいだかせないほど、中心街は寂れていた。

 伊藤さんと朝食を食べに安食堂に行く。うれしいことに米の飯がある。ご飯に肉汁をかけたものが25マクタ(約150円)。肉を抜いてもらうと15マクタになるので、それを頼んだ。それでも1食約100円。これからカレミでは何食も食べなくてはならないので、1食に15マクタも使えない。ということで15マクタのご飯を1皿だけ頼み、それを伊藤さんと半分づつに分けて食べることにした。ジャンケンをし、勝った方が7マクタ、負けた方が8マクタを払うことにした。ジャンケンの結果はぼくの負けで8マクタ、払った。

 食堂の前の木陰ではオバチャンたちが露店を開いていた。道端に座り、大きな洗面器に南京豆やキャッサバの粉、タマネギなどを入れて売っていた。

 朝食のあと、タンガニーカ湖の砂浜に行った。何するでもなしに砂浜に座り、寄せては返す波を見ていた。湖を見ながら伊藤さんの旅の話を聞いた。彼は日本からヨーロッパに飛び、中近東を経てインドまで行き、ボンベイから船でケニアのモンバサに渡った。その途中、トルコでは忘れられない恋をし、そのままトルコに住み着いてもいいと思ったほどだという。

 砂浜に座っていると、雷が鳴りはじめ、雨がポツポツ降りだしてきた。あっというまに激しい雨足になり、稲妻が真っ黒な大空を駆けめぐる。大急ぎで町に戻り、店に飛び込み、雨宿りをさせてもらった。ものすごい雨で屋根からは滝のように雨水が流れ落ちた。

ディムとの出会い

 午後になると雨はやんだ。タンガニーカ湖を見下ろす高台に場所を移し、そこにある教会の石段でゴロゴロしていた。そこでオランダ人旅行者のディムに出会った。彼は3日前にタンザニアのキゴマから船でカレミに渡ったが、両替できず、列車にも乗れなかった。列車の切符どころか、ザイールのお金を一銭も持っていなかったので、まる3日間、何も食べられなかった。やっと今朝になって米ドルを替えてくれる人がいて、4日ぶりの食事をしたという。

 ディムは体の具合が悪いようで、真っ青な顔色をしている。口びるにも色はなかった。体の具合が悪いといえばぼくも同じで、のどが焼けるように痛み、せきがひどかった。足も鉛のように重く、体全体がだるかった。

 ディムの乗る列車は明後日の出発だという。お互いに時間を持て余している者同士なので、教会の石段に座りつづけ、タンガニーカ湖を眺めつづけた。夕暮れが迫ってきたところで、食堂に入る。夕食はキャッサバの粉を練り固めたブカディと汁で20マクタ。それを伊藤さんと半分づつ、10マクタづつ払って食べた。夜はタンガニーカ湖の砂浜にシュラフを敷いて寝た。ディムもやってきた。

 目をさますと夜が明けていた。何もすることがないので、日が高くなるまで寝ていた。起き上がると、朝食を食べに食堂へ。朝食は前日と同じようにご飯に肉抜きの汁をかけたもの。15マクタのものを半分づつ食べた。ジャンケンではまたしてもぼくが負け、8マクタを払った。

 道端の露店のオバチャンたちとはすっかり顔なじみになっていた。オバチャンに変わってぼくが南京豆を売ってあげた。「カランガ(南京豆)! カランガ! モヤ・リクタ(1杯、リクタだよ)」

 と、通りがかりの人たちに声をかける。まあまあの売り上げで、オバチャンは喜んでくれた。お礼だよといってごっそりと南京豆をくれた。伊藤さんは折り鶴を折ってあげ、子供たちに喜ばれた。

アフリカの妖しい魅力

 いよいよ明日、出発だ。港にキゴマ行きの船の「ウルンディ号」が入ったと町の人が教えてくれた。さっそく港に行き、「ウルンディ号」を見た。港から戻ると、また所在なさげに町をプラプラ歩いた。顔なじみの人が多くなった。なにしろ朝から晩まで同じ道を何度も歩いているのだから、それも当然のこと。一緒に酒を飲まないかと声をかけられ、ヤシ酒のマロフとキャッサバやトウモロコシから造ったアフリカンビアーのルトィクを彼らと一緒になって飲んだ。

 いつもの食堂で夕食を食べ、そのあとは雨が降りだしそうな天気だったので、港に行った。岸壁前の建物の屋根下で寝た。夜中から夜明けにかけて土砂降りの雨が降った。起きてもまだぶ厚い雨雲が垂れ込めていた。

 ディムは今日の列車でルアラバ川の河畔の町、カバロまで行くという。一緒に駅まで行った。すでに切符を買う人たちの長い列ができていたが、それほど待たずに切符を買うことができてひと安心だ。

 ディムの顔色はいっそう悪くなっていた。夕べは2度もはいたという。ぼくにしてもディムにしても、体が悪いからといっておいそれと病院には行けない。毎日、ギリギリまで出費を切り詰め、食べるものも食べないで旅をつづけているのだ。病院代や薬代を払う余裕などまったくなかった。悲しい宿命…。それでも旅をつづけたいのだ。旅の途中で命を落としても本望だと、そう思えるような妖しい魅力をアフリカは秘めていた。

 今日が最後だからと、いつもの食堂に3人で行き、25マクタの肉汁をかけたご飯を1人1皿ずつ食べた。食堂の前の露店のオバチャンに午後の船でキゴマに渡るというと、オバチャンは南京豆をゴソッとくれた。

 ディムと別れ、ぼくと伊藤さんは港へ。伊藤さんと「ディムはもう発ったころだね」と話していると、なんとディムは力のない足どりで港にやってきた。なんと列車に乗り遅れたという。列車はカレミ駅の駅舎のあるところではなく、その先、500メートルくらいのところから発車したという。次の列車は2日後だ。それまでの間、ディムは死ぬほ退屈な時間を自分一人で過ごさなくてはならない。おまけに立っているのがやっとという具合の悪い体でだ。ぼくたちはそんなディムを残してキゴマ行きの船に乗り込んだ。