30年目の「六大陸周遊記」[033]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 9 ムソマ[タンザニア] → ナイロビ[ケニア]

渋谷さんの旅の話

 ムソマで得た情報では明後日にセレンゲティー・ナショナルパークを通ってアルーシャまで行くバスが出るという。ぼくたちはそのバスに乗ってアルーシャまで行くことにし、その夜はシェルのガソリンスタンドの片隅にシュラフを敷かせてもらって寝た。星空を見上げながら渋谷さんの旅の話を聞いた。

「自分を確かめたい」、「自分を試してみたい」、「自分を高めていきたい」ということで旅に出た。アフリカの旅ならば、それができると思ったという。

 キゴマからタボラへの夜汽車の中で、渋谷さんは一番大事なバッグを盗まれた。そのとき、「えらいなあ」と思ったのは、渋谷さんがほとんど騒がなかったことだ。そのことについて聞いてみると、サハラでの出来事を話してくれた。

 そのときは3人でトラックに乗せてもらってサハラを縦断していたが、そのうちの1人がカメラをなくした。トラックが止まって野宿しているときのことだったという。「きっと誰かが盗んだのだ」とわめきちらしてトラック中を探したが、カメラは出てこなかった。その姿があまりにも醜くかったので、もし自分が同じような目にあったら、絶対にそのような態度をとるのはやめようと心に誓ったのだという。

セレンゲティーでの争い

 次の日は1日、ムソマの町をプラプラ歩いた。市場を歩きまわり、食堂で昼食を食べたあとは、ビクトリア湖の湖畔で昼寝した。午後も町を歩き、食堂で夕食を食べたあとは、前夜と同じ、シェルのガソリンスタンの片隅で寝かせてもらった。

 一夜明けると、アルーシャへのバスの出る日になる。乗り遅れないようにと、まだ暗いうちにソコニ(市場)前のバス乗り場まで行く。ところがアルーシャ行きのバスはユナイテッド・バスサービスの事務所前から出るとのことで、あわててバス会社の事務所まで行った。

 バスには一番前の座席に座れた。まわりの景色がよく見える特等席だ。午前7時、発車。ムソマからアルーシャまでは33シル30セント。その間ではセレンゲティー・ナショナルパークを通っていくのだ。道はあまりよくない。交通量も少ない。キリンやガゼル、ワイルドビーストなどの野生動物が見えてくると、セレンゲティー・ナショナルパークは近い。やがてイコマゲートに到着した。

 そこでは係官に外国人は20シル、払うようにといわれた。冗談じゃない。ぼくたちは20シルは払えないと言い返した。ぼくたちはなにもセレンゲティーにやってきたのではない、アルーシャに行くのだと説明した。ゲートの係官にそういっても聞き入れられず、規則だからの一点張りだ。どうしても20シル払わないのなら、ここでバスを下りるようにといわれた。だが、ぼくたちは20シルは払えないし、バスを下りることもしないと言い返した。

 いいかげんに腹が立ってきた。そのうち別な係官たちもやってきて、彼らと大声を張り上げてやり合った。「絶対に20シルは払わないし、バスを下りるつもりはない」と繰り返していってやった。ゲートのボス格の男は部下に何かを命じた。すると彼は事務所からライフルを持ってきた。彼はボスにいわれるままにライフルを構え、ぼくにねらいを定める。が、ガタガタ震えているのがよくわかる。ぼくはライフルを突きつけられてよけいに頭ににきて、「やれるものならやってみろよ!」ぐらいのことをいってやった。バスの運転手や大勢の乗客たちは、ただじっとなりゆきを見守っている。

 東アフリカのナショナル・パークやゲーム・リザーブ内を幹線道路が通っている所は少なくない。たとえばツッボ・ナショナルパーク内の「ナイロビ〜モンバサ」間の道や、アンボセリ・ゲームリザーブ内の「ナイロビ〜アルーシャ」間の道、ミクミ・ナショナルパーク内の「ダルエスサラーム〜ムベア」間の道、クイーンエリザベス・ナショナルパーク内の「フォートポータル〜ムバララ」間の道などだ。そこではナショナルパークの入園料はとられらない。このセレンゲティー・ナショナルパークにしても、その中を通っている道は「ムソマ〜アルーシャ」間の唯一の幹線道路で路線バスのルートにもなっている。

 ライフルを構えた係官とのにらみ合いはつづいた。その短い沈黙の時間のおかげで、すこしは冷静に考えられた。ここでナショナルパークの役人たちといい争っても、ぼくたちに勝ち目はない。彼らの上司を待って話し合ったとしても2、3日はかかるだろう。その間の食料はないし、彼らが出してくれるとも思えなかった。さらにバスの乗客たちをこれ以上、待たせたくないという気持ちが強かった。

 ぼくたちの負けだ。ゲートの窓口で20シル払い、チケットをもらった。1時間あまりのトラブルのあと、バスは何事もなかったかのように走り出した。運転手も乗客のみなさんも、ぼくたちに対して不快そうな目を向けることはなかった。それよりも、よくぞ役人たちに立ち向かったという表情で拍手してくれる人もいた。

ムソマからバスでセレンゲティーへ。牛の群れがバスの前を行く
ムソマからバスでセレンゲティーへ。牛の群れがバスの前を行く
セレンゲティー・ナショナルパークのイコマゲート
セレンゲティー・ナショナルパークのイコマゲート
ンゴロンゴロのクリエーター

 セレンゲティー・ナショナルパークを抜け出ると、リーキー博士らが発見した原生人類の祖先といわれるジンジャントロプスの化石で有名なオルドワイ渓谷の近くを通り、大地溝帯(グレート・リフト・バレー)内にあるンゴロンゴロ・クリエーターに近づく。またしてもバスはゲートで止まった。「ここでも20シル、取られるのか…」と気分が沈んだが、そこでは「ンゴロンゴロではひと晩、泊まりますか」と聞かれ、「ノー」と答えると、20シル取られないですんだ。

 ゲートを過ぎると、正面に大きな山が見えてきた。バスは山道を登っていく。登りつめると、眼下にはぱっくりと口をあけた巨大な火口が見えた。ンゴロンゴロ・クリエーターだ。ンゴロンゴロのクリエーター内にはさまざまな野生動物が生息している。すばらしい眺めで、ここは東アフリカのパック旅行の目玉的存在になっている。

 マニャラ湖の北側を通り、アルーシャとドドマを結ぶ幹線道路に合流し、終点のアルーシャには夜の9時過ぎに着いた。ムソマからアルーシャのルートというのは、変化に富み、東アフリカならではの雄大な風景をあちこちで見ることができる。20シル取られても仕方ないか…。

 アルーシャに着くと、まだあいている食堂で遅い夕食にする。店の主人はザイールのルブンバシから来た人で、ぼくがルブンバシを通ってきたというと喜んでくれ、鍋の底に残っていたものを全部、タダで食べさせてくれた。

ンゴロンゴロ・クリエーター
ンゴロンゴロ・クリエーター
ナイロビに戻ってきた…

 翌日、ぼくたちは別れた。ぼくはヒッチハイクでナイロビへ、渋谷さんはバスでナイロビへ、伊藤さんはモシからケニアに入り、モンバサに向かう。ここまでずっと一緒に旅してきたので、いざ別れるとなると、後髪を引かれるような思いがした。

 アルーシャからナイロビまでのヒッチハイクは楽なもので、ほとんど待つこともなく、国境を越え、昼過ぎにはナイロビに着いた。ナイロビ郊外の佐藤さんの家を目指して歩く。裸足なので1時間ほど歩いて佐藤さんのお宅に着いたときは、足の裏がヒリヒリと痛んだ。こうして佐藤さんのお宅を拠点にしての2回目のヒッチハイクの旅から戻ってきた。40日あまりの間に、ケニア→タンザニア→ザイール→タンザニア→ケニアと8300キロをまわり、その間では全部で67台の車に乗せてもらった。

 着ているものを全部、洗濯させてもらった。翌日は1日、ぐっすりと眠り、休ませてもらった。そのおかげで、どれだけ体の疲れがとれたかしれない。

道を横切るキリン。「アルーシャ→ナイロビ」間で
道を横切るキリン。「アルーシャ→ナイロビ」間で
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
ナイロビに戻ってきた!
3度目のヒッチハイク行へ

 佐藤さんのお宅を拠点にさせてもらっての3度目のヒッチハイク行のルートは頭の中では固まっていたが、実際に地図を見ながら、そのルートを追ってみる。

 イスラエルをどうしてもまわってみたかった。

 それともうひとつの大きな目的は白ナイルの船旅だ。それをかなえるために、スーダンの首都ハルツームから南下し、白ナイル水運の起点のコスティに行き、そこからウガンダ国境に近いジュバまで船でさか上ろうと考えた。

 こうして次のような計画をつくり上げた。ケニアから陸路でエチオピアに入り、首都のアディスアベバから飛行機でキプロス経由でイスラエルのテルアビブに飛び、イスラエル国内をまわる。飛行機でギリシャのアテネへ。そこからトルコ、シリア、レバノンと地中海沿岸の国々をまわり、レバノンのベイルートからエジプトのカイロに飛ぶ。カイロからはナイル川沿いに南下し、スーダンからウガンダに入り、首都カンパラからナイロビに戻るというもの。

 佐藤さん、奥さん、よしこちゃん、りょうこちゃんに別れを告げ、佐藤さんにもらった靴をはいての出発だ。さー、行くゾ!