アジア大陸横断 2016年(1)

3パートで1万5000キロの旅

 道祖神の「賀曽利隆と走る!」シリーズの第18弾目は「ウラジオストック→イスタンブール」の「アジア大陸横断」だ。

 2016年7月23日、鳥取県の境港に日本全国から参加者の9台のバイクが集まった。1台は2人乗りのサイドカーなので、総勢10名になる。

 我々は境港からロシアのウラジオストックに渡り、シベリア横断→カザフスタン縦断→シルクロード横断の3パートで1万5000キロを走り、トルコのイスタンブールを目指すのだ。

 9台の参加者のバイクとカソリのDR−Z400S、そのほかに車が1台。道祖神の海野さんとメカニックの小島さんが乗るサポートカーが一緒に走ってくれる。

 我が相棒のDR−Z400Sではこれまでに「ユーラシア大陸横断」、「サハラ砂漠縦断」、「南米アンデス縦断」を走っている。

 参加者のバイクの中でもひときわ目立つのは、「金ちゃん」こと伊藤金二さんのヤマハのスーパーテネレ1200。リアにはアルミ製のボックスが2個、取りつけられている。そのうちのひとつにはユーラシア大陸の地図が描かれ、境港からイスタンブールまで赤線が引かれている。赤線はさらにユーラシア大陸最西端のロカ岬まで延びている。

 金ちゃんは奥様の義子さんとの参加で、義子さんが乗るのはヤマハのセロー。伊藤夫妻はイスタンブールで我々と別れたあと、さらにポルトガルのロカ岬に向かい、「ユーラシア大陸横断」を目指すのだ。すごいぞ!

 ロイヤルエンフィールドに乗る三浦さんも、イスタンブールで我々と別れたあとはイギリスのロンドンを目指す。「東京→ロンドン」を走り切ったあと、三浦さんはさらにニューヨークに渡り、アメリカを横断して「世界一周」を夢みている。

 境港でのバイクの税関チェックを終えると、ターミナルビル近くの食事処「かいがん」で最後の日本食。「本マグロ丼」を食べた。そしてイミグレーションでパスポートに「SAKAI」の出国印を押してもらい、「イースタンドリーム号」に乗り込んだ。バイクでの乗船は我々だけだった。

「イースタンドリーム号」は19時に境港を出港。翌日の9時30分には韓国の東海港に到着した。ここでは下船して町を歩き、港近くのコンビニ「ミニストップ」で昼食。「アサヒスーパードライ」を飲みながらサンドイッチを食べ、韓国製の辛いインスタントラーメンを食べた。

 14時30分に東海港を出発すると、我々は甲板のテーブルでワインパーティーを始めた。船内の売店で買ったフランス産、アメリカ産、チリ産のワインを飲みまくる。ロシア人のグループも加わって船上のワインパーティーは大盛り上がり。これが船旅の良さというものだ。

 ロシアのウラジオストック港に到着したのは翌7月25日の16時。我々が泊まったホテルはその名も「赤道ホテル」。さっそく町に飛び出し、シベリア鉄道の終点、ウラジオストック駅に行く。1894年に完成した駅舎には、ターミナル駅としての風格が漂っている。ホームにはモスクワ行きの20両編成の列車が停車していた。モスクワまでは9288キロ。1978年にシベリア鉄道には乗ったが、また乗ってみたくなった。

 夕食はウラジオストック駅に近いレストラン「ポルト フランコ」で。スープのボルシチを飲みながら揚げパンのピロシキを食べる。メインディッシュの鶏肉ロールにはライスが添えられている。これが記念すべきロシアでの第1食目。このあとボルシチはほとんど毎日のように飲むことになる。ピロシキもあちこちで食べることになる。ボルシチとピロシキはロシアの「食」の代表選手といっていい。

 翌日は一日、税関でのバイクの引き取りに費やした。道祖神の海野さんの活躍もあって夕方にはバイクを引き取ることができた。「赤道ホテル」の前には我々のバイクがズラズラッと並んた。

  • ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指す伊藤さん夫妻。境港で
    ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指す伊藤さん夫妻。境港で
目指せ、イスタンブール!

 7月27日。いよいよ出発。参加者全員で「目指せ、イスタンブール!」の雄叫びを上げて走り出したが、目指すイスタンブールは遥かに遠い。

 ウラジオストックからはM60(国道60号)を北へ。4車線のハイウエイを快走。雄大な風景の中を時速100キロで走行。カソリのDR−Z400Sが先頭を走り、その後に参加者のみなさんのバイクがつづく。バックミラーに映る後続のバイクのきれいなラインに胸がジーンとしてしまう。

 ウスリースク、ダリネレチェンスクで泊まり、ウラジオストックを出てから3日目にロシア極東の中心地ハバロフスクに到着。ウラジオストックからは1033キロ。世界の大河アムール川(全長4416キロ)が流れている。川岸の展望台に立ち、悠々とした流れを見下ろした。大河を横切って対岸から渡船がやってきた。

 ハバロフスクからはM58(国道58号)を行く。ピロビジャンを通り、アムール川河畔の町ブラゴベシチェンスクへ。2002年にはDRでこのルートを走ったが、その時は100キロ以上がダートで、雨に濡れたツルツルの路面に泣かされた。それが2車線の舗装路に変わっている。交通量は格段に増え、どの車も時速100キロ以上で走っている。車はトヨタが圧倒的に多い。レクサスの新車も多く見かけた。大型トラックも高速で走っているので追い越しが大変だ。

 ブラゴベシチェンスクは懐かしの町。アムール川対岸の町並みは中国の黒河になる。

 2002年のシベリア横断でこの風景を見たときは、胸をギュッとつかまれるような思いがした。その2年後の2004年には、スズキの110ccバイクで旧満州(中国東北部)を一周。そのときに黒河から黒龍江(アムール川)対岸のブラゴベシチェンスクの町並みを見た。

 ブラゴベシチェンスクを出ると、シマノフスク、スコボロディーノ、モゴチャ、チェルニフスクに泊まりチタへ。スコボロディーノではヤクーツクから氷点下71・2度を記録した世界最寒冷地のオイミャコンを経由し、オホーツク海のマガダンに通じるM56(国道56号)が分岐している。いつの日か、M56でマガダンまで走ってみたいと熱望しているカソリなのだ。

 スコボロディーノ→モゴチャ間では、中国の大興安嶺山脈から北に延びる丘陵地帯を越えていく。中国最北端の漠河村が近い。

 2004年の「旧満州一周」では中国最北端の地に立った。黒龍江(アムール川)の河岸には「神州北極」と彫り刻まれた碑が立っていた。中国では自国のことを「神州」という。「北極」というのは最北端の意味。漠河村は「北極村」で知られている。「旧満州一周」では中国最東端の「東極」にも立った。そこはハバロフスクに近い黒龍江(アムール川)と烏蘇里江(ウスリー川)の合流地点。その後、黒龍江(アムール川)の黒瞎子島(大ウスリー島)が新たな中露国境になり、それにともなって「東極」は若干、東にずれた。

 シベリアの中国への玄関口のチタに到着。ここからは陸路と鉄路が中露国境の満州里経由で中国・黒龍江省の中心地ハルビンに通じている。チタでは「東方の真珠ホテル」に泊まった。ホテルの壁にはロシアのプーチン大統領と中国の習近平国家主席が握手している大きな写真が掲げられている。

「東方の真珠ホテル」ではちょうど結婚式の最中で大盛り上がり。外に出てきたロシアの花嫁さんは我々のバイクをみつけると、三浦さんのロイヤルエンフィールドにまたがらせてもらって大喜び。忘れられないシーンだ。

 チタからはM55(国道55号)を行く。モンゴルへとつづく大草原が地平線の果てまで広がっている。天も地もとてつもなく大きい。その中をバイクで突き進む快感。草原からはプーンとハーブの匂いが漂ってくる。天然の大ハーブ園といったところだ。

 ヒロックの手前でゆるやかな峠を越えた。名前もついていないようなこの峠が、オホーツク海に流れ出るアムール川と北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分けている。といってもここはシベリアの内陸部。海からは2000キロも3000キロも離れている。峠を越えると、ウラル山脈までつづく広大なシベリアを流れる川は、すべてが北極海へと流れ出る。

 ウラジオストックから4198キロのウランウデに到着。ここはシベリアのモンゴルへの入口。町を歩くと多くのモンゴル人に出会う。日本人に似ているので、思わず「こんにちは!」と声をかけそうになる。ウランウデには連泊したが、「コホールコグ」というモンゴル料理店をみつけると、ラムの骨つき肉を食べた。食後には濃厚な味わいのモンゴルのバター茶を飲んだ。

  • ハバロフスクに通じるM60を行く。ダリネレチェンスクとの分岐点で
    ハバロフスクに通じるM60を行く。ダリネレチェンスクとの分岐点で
シベリア横断で出会うライダーと大河

 8月8日、ウランウデを出発。M55(国道55号)でイルクーツクへ。160キロほど走ると、右手にはバイカル湖が見えてきた。青空を映してバイカル湖はより青い。

「おー、バイカルよ!」

 シベリア鉄道のガード下をかいくぐってバイカル湖の湖畔でバイクを止めた。バイカル湖は見渡す限りの水平線。小波が湖岸に押し寄せている。ウエアを脱ぎ捨ててバイカル湖に飛び込んだ。バイカル湖での湖水浴。バイカル湖は思ったほど冷たくはなかった。全身でバイカル湖を感じ、シベリアを感じ取った。

 バイカル湖の面積は3万1500平方キロで世界第8位だが、深さは1742メートルで世界最深。この湖ひつだけで、とてつもない水量の真水を貯め込んでいる。「バイカル」はトルコ語で「魚の豊富な湖」の意味だという。湖の周辺では、バイカル湖で獲れた魚の燻製を売っていた。

 200キロ近くもバイカル湖を右手に見ながら走る。バイカル湖の南端を通り過ぎると山地に入り、ゆるやかな峠を越え、東シベリアの中心都市イルクーツクに到着した。

 イルクーツクは井上靖の名著『おろしや国酔夢譚』の舞台。18世紀末、大黒屋光太夫はこの地に滞在した。中国や満州、朝鮮との交易が盛んで、町はおおいに栄えていたという。トラム(市電)の走るヨーロッパ風の古い町並みは印象的。「シベリアのパリ」といわれるイルクーツク、レストランの夕食では、みなさんとボルドーの赤ワインを飲んだ。

 イルクーツクからはM53(国道53号)でクラスノヤルスクを通り、西シベリアの中心都市ノボシビルスクに向かう。大草原がはてしなく広がる。

 昼食は街道沿いの「カフェ」で。カフェといってもコーヒーや紅茶を飲むだけでなく、食事もできる。2階が宿というカフェもある。カフェは「シベリア横断」のオアシスだ。ここでは「マカロニ&ケバブ」を食べたが、ケバブというのは串焼きにした羊肉。西アジアのカバブのこと。シベリアを西へ、西へと走るにつれて西アジアが近くなってくる。

 昼食後は猛烈な睡魔に襲われる。そこでM53沿いのバス停で小休止。5分、10分のわずかな眠りが最高に気持ちいい。夢から覚めると世界がキラキラ光り輝いて見える。

 シベリア横断路を走っていると、何度となくツーリングライダーに出会う。「モスクワ〜ウラジオストック間」を走るロシア人ライダーは多い。

 M53のPAで出会ったBMWのライダーはイギリス人。シベリア横断の途中、モンゴルに寄ってウラジオストックを目指すという。ウラジオストックで出会ったベルギー人ライダーは、ベルギーを出発してから35日目にウラジオストックに到着した。ハバロフスクで出会ったスペイン人ライダーは20日間でスペインまで走り切るといっていた。韓国の東海港では7人の韓国人ライダーが乗り込んだが、そのうちの一人はシベリアを横断したあと、ヨーロッパからアメリカに渡り、アラスカを目指すという。

「シベリア横断」は世界の「大河紀行」でもある。ハバロフスクではアムール川(全長4416キロ)に出会ったが、クラスノヤルスクではエニセイ川(5550キロ)を見る。河畔の道を歩いたあとはモーターボートで世界の大河をクルージング。一人で1時間近く乗って700ルーブル(約1000円)。西シベリアのノボシビルスクではエニセイ川よりも長いオビ川(5568キロ)を見る。クラスノヤルスクにしてもノボシビルスクにしても北極海の河口からは4000キロ近く離れているのに、エニセイ川やオビ川の川幅は1キロ以上もある。日本の川とは比較にならない桁外れの大きさ。地球の大きさを目の当たりにする。

 ウラジオストックから6562キロを走り、西シベリアの中心都市ノボシビルスクに到着。我々はここで進路を南に変え、カザフスタンに向かったが、シベリア横断ルートはそのまま西へ。ノボシビルスクからM51(国道51号)で欧亜を分けるウラル山脈を越え、モスクワに通じている。ウラル山脈の峠には分水嶺の大きな石碑が立っている。西に向かっては「ヨーロッパ」、東に向かっては「アジア」とロシア語で書かれ、その側面には欧亜を分ける赤い線が引かれている。それはまさに「大陸境」。2002年の「ユーラシア大陸横断」の時の写真を見てもらおう。

  • バイカル湖
    バイカル湖