アジア大陸横断 2016年(2)
第2パート「カザフスタン縦断」
2016年8月14日、西シベリア最大の都市ノボシビルスクを出発。M52(国道52号)を南下し、「カザフスタン縦断」の旅が始まった。
今回の「ウラジオストック→イスタンブール」の「アジア大陸横断」は3部構成から成っている。出発点のウラジオストックからノボシビルスクまでの「シベリア横断」と「カザフスタン縦断」、それとカザフスタン最大の都市アルマトイから終着点イスタンブールまでの「シルクロード横断」だ。
我々は第1パートの「シベリア横断」を終え、第2パートの「カザフスタン縦断」を開始したのだ。
ノボシビルスクの市街地を抜け出ると4車線道路が2車線道路になり、はてしなく広がる大平原を突き進む。行きかう車は時速100キロ以上で走っている。我が相棒のスズキDR−Z400Sで地平線に向かって突っ走る気分は最高。ハンドルを握りながら、思わず「おー、これぞ大陸!」の声が出る。行く手にはたえず地平線。桁外れの風景だ。
平原を一面に黄色く染めてヒマワリが咲いている。風が吹くと、黄色い平原が揺れる。
一面のソバ畑も見える。ロシア人はけっこうそばを食べる。麺に打つのではなく、粒のまま食べるのが一般的。日本でいえば四国の祖谷名物の「そば米」のようなもの。昼食にはレストランでそばを食べたが、そば(粒)にハンバーグがのっていた。それとボルシチとサラダだった。
ノボシビルスクから520キロ走ってルブツォフスクに到着。カザフスタンとの国境に近いこの町でひと晩泊ったが、トロリーバスが走る町中の道の大半はデコボコ道。我々は最果ての町にやってきた。
中央アジアに入る
ロシアからカザフスタンに入国すると、交通量はガクッと減った。旧ソビエト連邦の中央アジアに入ったのだ。
大草原の中に延びるひと筋の道を走り、セメイで泊まる。ここは旧セミパラチンスク。1949年、旧ソ連はセミパラチンスクの西方150キロの草原地帯に核実験場を開設し、1989年までの40年間で456回もの核実験をおこなった。そのうち116回は大気中での核実験。セミパラチンスクは現代史の重要な舞台なのである。
セメイにはまだ明るいうちに到着したので町を歩き、理髪店を見つけると髪を切ってもらった。若い女性理容師はていねいにハサミで切ってくれた。料金は1500テンゲ(約450円)。さっぱりした!
セメイでの夕食。町中のレストランで串焼き肉(羊肉)のシャシリックを食べた。これがカザフスタンでの第1食目。そのほか馬肉料理や馬の胃、牛タンを食べたが、シャシリックのうまさは際立っていた。
セメイからアルマトイを目指して南下。高速道路のような快走路を走っていると突然ダートに突入したり、舗装路なのに穴ボコだらけになったり、波打つような路面になったりしたが、おかまいなしに100キロ超の高速で突っ走る。
ところがその途中、スピード違反で捕まった。
若い警官にパトカーの後部座席につれ込まれ、罰金は200USドルだといわれた。カザフスタンの通貨のテンゲではなく、USドルで払えという。
「いやー、おまわりさん、持っている現金はこれだけなんですよ」
といって財布の中にあった50ドルを差し出した。
若い警官は「200ドルだ」と言い張ったが、パトカーを運転していた上司の警官が「50ドルにしてあげろ」といってくれたおかげで交渉成立。罰金は50ドルになった。
若い警官は帽子を脱ぐと、その中に50ドルを入れろという。警官の帽子の中で10ドル紙幣5枚を手渡した。違反の切符を切られることもなく、領収書が発行されることもなかった。50ドルは警官のポケットに入るのか…。
日本の免許証に傷がつく訳でもないので、まあいいか。
この間では忘れられない出会いもあった。
たまたま街道沿いの農場前の木陰にバイクを止めて小休止にしたのだが、農夫に手招きされ、農場内で甘味たっぷりの大きなスイカをいただいた。農場の夫婦はチェチェン人。チェチェンといえば20万人もの犠牲者を出したロシアの紛争地帯。北コーカサス地方の一共和国だ。
シルクロードに合流する
ノボシビルスクから1800キロ、「カザフスタン縦断ルート」を走り終えてアルマトイに到着。中国の西安からイスタンブールまでつづくシルクロードに合流。さー、ここからは「シルクロード横断ルート」だ。
カザフスタン最大の都市アルマトイでは、高層の「ホテル・アルマトイ」に泊まった。
翌朝は夜明けとともに起き、6階の部屋のベランダから天山山脈を眺めた。高峰群は雪山。同室のBMW1200GSに乗る「スーさん」こと鈴木幹さんの入れてくれたコーヒーを飲みながら天山山脈の雪山を眺めたのだ。それはまさに至福の時。鈴木さん、コーヒーはおいしかったですよ〜!
天山山脈はシルクロードのまさにシンボル。その北側を天山北路、南側を天山南路が通っている。アルマトイを通っているのは天山北路になる。
天山山脈のカザフスタンとキルギス、中国の3国国境に聳えるハン・テングリ山(7010m)がカザフスタンの最高峰、そのすぐ南に聳えるキルギスと中国の国境に聳えるポペーダ山(7439m)が天山山脈の最高峰になっている。
東西文明激突の地のタラス
8月19日、アルマトイを出発。イスタンブールを目指してシルクロードを西へ。
カザフスタンからキルギスに入った。
キルギスの首都ビシュケクでは「ホテル・アジアマウンテンス2」に泊った。
ビシュケクの町から見る天山山脈の雪山は、まぶしいほどに白く輝いていた。
ビシュケクから西へ、西へとDR−Z400Sを走らせる。
ビシュケクから東に行けば中国国境のトルガルト峠を越えて、中国西端の町カシュガルに至る。2006年の「シルクロード横断」(天津→イスタンブール)では、カシュガルからトルガルト峠を越えてビシュケクにやってきた。そんなシーンがなつかしく思い出された。
キルギスから再度カザフスタンに入り、シルクロードの要衝の地、タラスで泊まった。
2000年以上もの歴史を誇るタラスだが、8世紀の半ばにはここで唐軍とアラブ軍が戦った。東西文明激突の地のタラスから、さらに天山山脈の山裾を走る。西に行くにつれて天山山脈の山並みは低くなり、やがて視界から消えた。
カザフスタン第3の都市シムケントから、中央アジア3ヵ国目のウズベキスタンに入り、首都のタシケントで泊まった。
タシケントは中央アジア最大の都市。夜明けには起き、町を1時間ほど歩いた。これは毎日の日課。カザフスタン、キルギスではトヨタ車が圧倒的に多かったが、ウズベキスタンではシボレーなどのGMの車が目立った。
大陸横断のハイライト
タシケントから340キロ走り、「青の都」の異名を持つシルクロードの拠点、サマルカンドに到着。ウラジオストックから9684キロ。我々の「アジア大陸横断」のハイライトシーンといっていいこの町には連泊した。
サマルカンドはシルクロードの中心都市として2000年以上、栄えてきた。ここでは町の中心のレギスタン広場を歩き、チムール帝国の霊廟のグリ・アミール廟を見る。
それらの世界遺産以上に心に残ったのは、旧市街地の町歩きだ。迷路のような小道をひたすら歩き、多くの人たちに出会った。バザール(市場)も歩いた。ここでは米売場が目についた。日本のように5キロとか10キロのパックされたものではなく、豪快な計り売り。果物売場ではザクロが山積みにされていた。スイカやメロンの売場もある。野菜売場では香菜とウイキョウが目立った。
走行距離は1万キロを超えた
サマルカンドからはシルクロードの聖地ブハラを通り、中央アジア4ヵ国目のトルクメニスタンに入った。そこでウラジオストックからの走行距離は1万キロを超えた。
シルクロードのオアシス都市マリーを通り、首都のアシュハバートに到着。我々は丘の上に建つ「ミザンホテル」に泊まったが、それはまるで近未来の巨大モニュメントを思わせるような建物。町の中心には1948年10月6日に起きた大地震のモニュメントが建っている。この大地震でアシュハバートは壊滅的な打撃を受け、14万人もの死者を出した。今の町はそのあとに再建されたもので、古い建物や旧市街は一切、残っていない。
アシュハバートには連泊したので、昼食は町中のレストランで食べた。
中央アジアの名物料理「ラグマン」を食べた。トマトベースのスープには手打ちの麺が入っている。腰の強い麺。野菜類の具がゴソッと入っている。その上には香辛料のウイキョウがのっている。中国・華北が発祥の麺は、シルクロードを経由して西へ、西へと伝わった。シルクロードは「麺ロード」といってもいい。アシュハバードの「ラグマン」は、そんな「麺ロード」で食べる最後の麺になった。