第1回目(18)2011年5月10日-20日
奇跡の防潮堤、奇跡の水門
5月20日4時30分、黒崎の国民宿舎「くろさき荘」を出発。北緯40度線のモニュメントの地球儀やカリヨンの鐘、岬突端の灯台を見てまわり、高台から海岸に下った。
そこは太田名部漁港。巨大防潮堤の太田名部防潮堤は無事で、その内側の太田名部の集落にはまったく被害は出ていない。
防潮堤や水門が破壊されたり、大津波が防潮堤を乗り越えたりして大きな被害の出た現場を各地で見てきたので、ここではホッと救われるような思いがした。
とはいっても、ここでも相当な高さまで津波が押し寄せている。
太田名部漁港を過ぎた普代川沿いの山肌には、20メートルぐらいの高さまで津波の駆け上った痕跡が残っていた。
普代川の巨大水門の普代水門も無事だった。そのおかげで国道45号沿いの普代の町は守られた。
太田名部防潮堤と普代水門の建設に尽力したのは元村長の和村幸得氏。明治三陸大津波で記録された15・2メートルの高さにこだわり、巨大防潮堤と巨大水門の完成に尽力した。そのおかげで東日本大震災では普代村の死者は0人。「奇跡の防潮堤」、「奇跡の水門」と呼ばれている。
普代からは国道45号を行く。
安家川を渡ると野田村。野田は大きな被害を受けた。海岸の堤防はズタズタに崩壊し、海岸からかなり内陸に入った一帯の多くの家が倒壊した。ここでは押し寄せた津波よりも、強烈な引き波にやられたという。そんな中にあって道の駅「のだ」は無事だ。
野田から久慈へ。
久慈には高さ20メートル近い大津波が押し寄せたが、幸いにも大きな被害は出なかった。死者・行方不明者は6人。海岸から離れている久慈の町は無傷で、久慈漁港では魚市場が再開し、漁船が出入りしていた。