賀曽利隆の観文研時代[98]

長崎の築町市場を歩く(1)

1986年

 観文研編の『日本の郷土料理全8巻』(ぎょうせい刊)の取材(1986年)で長崎駅に着くと、まずはロープウェーで稲佐山に登った

稲佐山から見下ろす長崎
稲佐山から見下ろす長崎

 稲佐山は標高300メートルほどの山だが、海からスーッとそそり立っているので、それ以上の高さに見える。

 山頂に立つと、長崎の町を一望できる。

 長崎をとりまく地形が手にとるようによくわかる。

「絶景だ!」

 奥深くまで切れ込んだ長崎港は、まさに天然の良港。

「鶴の港」といわれるとおり、鶴が大きく羽を広げたような形をしている。

 クレーンが林立する足元の造船所からは、鉄を打つ音やけたたましいサイレンの音が聞こえてくる。五島列島に向かう連絡船が、汽笛を鳴らして岸壁を離れていく。

 そのような音が、長崎の町全体が発する「ウォ〜ン」というどよめきのような音に混じって聞こえてくる。

 7つの丘に囲まれた長崎。

 平地はほとんど見られない。わずかに、浦上川沿いに細長く延びる平地があるだけだ。

 長崎駅や浜町周辺にビルが集中し、その背後の丘の斜面には、びっしりと家が建ちならんでいる。

 長崎港の出口にはいくつかの島が浮かび、その向こうには東シナ海が広がっている。

「あの大海原を越えて、南蛮船や唐人船が長崎にやってきた!」

 ぼくは山頂に立ち尽くし、稲佐山から立ち去ることができなかった。

 日が落ちると、まばゆいばかりの夜景が目の前に広がる。「宝石箱をひっくり返した」ぐらいでは表現できないような夜景。町明かりは海に映って揺れている。

 長崎の開港は元亀元年(1570年)。それ以前の長崎は深江とか瓊(たま)の浦と呼ばれる一寒村でしかなかった。

 それが開港されると南蛮貿易の貿易港になり、やがて教会領になり、ポルトガルに譲渡された。それは天正7年(1579年)のことだった。当時、ポルトガル人たちは長崎港のことを「ドン・バルトロメス港」と呼んでいた。

 長崎が教会領、つまりポルトガル領のドン・バルトロメスになった頃から、ポルトガルは衰退しはじめた。日本国内では戦国時代が終わり、織田信長によって、それにつづく豊臣秀吉によって、国内が統一されていく。

 歴史というのはおもしろい。

 もしポルトガルの勢力が日本に達した頃、ポルトガルが最盛期を迎えていたら、日本はその後のキリスト教の禁止や鎖国はそう簡単にはできなかっただろうし、マカオやゴアと同じように、ポルトガル領ドン・バルトロメスはごく近い時代にまで残っていたかもしれない。

 豊臣秀吉は天下統一をはたすと、伴天連(宣教師)の追放令を出し、切支丹の弾圧をおこなった。それは日本にキリスト教を布教しようとしたイエズス会のあまりにも強引な布教の結果であった。

 徳川時代になり、3代将軍の家光は寛永12年(1635年)に鎖国令を出し、外国貿易港を長崎港だけにした。それによって長崎港は空前の発展をとげる。

 寛永18年(1641年)には、外国の貿易船を紅毛船(オランダ船)と唐人船に限った。