賀曽利隆の観文研時代[95]

吉野川の鮎(3)

1986年

 大歩危駅前の食堂「いちひろ」で、ご主人の采本(うねもと)博さんに、この地方の鮎料理をいろいろと聞いてるうちに日が暮れてしまった。

 駅近くの民宿に泊まり、夕食後、もう一度、駅前食堂の「いちひろ」に行く。采本さんはいやな顔もしないでぼくを迎えてくれた。

 今度はビールを飲みながら、鮎漁の話を聞いた。采本さんは鮎釣りの名人で、鮎漁の漁師といってもいいような人なのだ。

 吉野川の鮎の解禁は6月1日で、10月いっぱいが漁期。9月になると落ち鮎の季節で、鮎は産卵のために吉野川を下っていく。

 小歩危の手前、土讃本線の阿波川口駅近くに、鮎戸瀬(あどせ)と呼ばれている鮎釣りの好漁場がある。青石の川床は急勾配で、早瀬になっている。

 吉野川をのぼってきた鮎は、ここを一気にのぼることはできない。あまりにも急な早瀬だからだ。休んではのぼり、休んではまたのぼる。そのような鮎を釣り上げる。かつて、鮎がたくさんのぼってきた頃は、たも網でもすくえるほどだったという。

 鮎戸瀬をのぼりきった鮎なので、大歩危の鮎はいっそう身がひきしまり、一段と大きくなり、吉野川の鮎の中でも最高級といわれている。

 鮎は「トモガケ」で釣る。おとり鮎を使った友釣りのことである。

 おとり鮎の鼻にリングをつけ、そこに釣糸を通し、ひれ近くにカエシバリをひっかけておく。それから1センチほど先にトモバリをつけておく。

 おとり鮎は釣り上げたものを使うが、元気のいい鮎でなくてはならない。それには針が背びれにひっかかった鮎がいいという。口とか腹にひっかかった鮎だと、くたんとしてしまうからだ。

 鮎は一匹、一匹が縄張りを持っている。その縄張りに入ってきた鮎はオス、メスにかかわらず追い出そうとする習性がある。友釣りはそのような鮎の習性を利用したもの。そのおとり鮎を追いはらおうと体当たりをしているうちに針にひっかかってしまうのだ。この釣り方は鮎特有のものである。

 鮎は朝夕がよく釣れる。1日2食、朝と夕方に川藻を食べる。さきほどの縄張りというのは、鮎が自分の餌場を確保するためのものだという。

 トモガケのほかに「ナグリ」というひっかけ漁もする。鉛の重りをつけ、針を3本まとめてつけ、それを5つ、6つとつけて流し、鮎をひっかける。

 箱めがねで水中をのぞき、細くて短い竿の先につけた針でひっかける「シャクリ」でも鮎をとる。

 そのほか、潜ってカネツキ(ヤス)で突いたり、「オサエウチ」といって、瀬をのぼってくる鮎に投網(とあみ)を打って鮎をとる漁法もある。

 池田周辺では網漁もおこなわれている。刺し網を夕暮れ時に張り、夜中に上げたり、夜明けに上げたりする。この鮎の刺し網漁は7月5日から9月いっぱいまでと、漁期が決まっている。

 鮎はアユ科で、一科一属一種の魚。ということは鮎に似た魚は鮎以外にいないということを意味している。

 鮎の寿命は1年。

 鮎は晩秋に吉野川河口の真水と海水の境あたりの砂地に産卵する。産卵を終えた鮎はやせて黒ずみ、骨と皮だけになってしまう。稚魚は海で育ち、翌春、吉野川に戻ってくる。

 采本さんの鮎漁の話を聞いていると、酒量が上がった。話がおもしろいのだ。ビールが焼酎にかわり、采本さんと焼酎をコップにつぎあってはクイクイと飲み干していく。

 最後に采本さんは、
「早起きはできるかね」
 と聞く。

「朝は強い方です」
 と答えると、明朝、鮎釣りに連れていってくれるというのだ。

 翌日、夜が明けてまもない午前5時、駅前食堂の「いちひろ」に行った。

吉野川の大歩危で鮎を釣る釆本博さん
吉野川の大歩危で鮎を釣る釆本博さん

 すでに采本さんは半ズボンにランニングシャツといういでたちでぼくを待ってくれていた。腰には魚籠(びく)をつけ、足は滑らないゴム靴でビシッときめていた。

 さー、出発だ。

 早朝のすがすがしい空気を吸って、大歩危駅の裏手から吉野川に降りていく。釆本さんは青石の上を身軽に飛びうつりながら釣糸を垂れる。

 最初に「ナグリ」と呼ぶひっかけ漁で鮎をとる。それをおとり鮎にして、「トモガケ」で釣る。わずか2時間ほどの間で10匹以上を釣り上げた。

 鮎釣りのコツを聞くと、
「まずは川を知ることだね。鮎がいるのか、いないのか、それをみきわめないと。それと、釣り上げる時、ゆるめたらいけない。テグス(釣り糸)がぴんとしていないとね」
 といった答えが返ってきた。