賀曽利隆の観文研時代[81]

岡崎の八丁みそ(2)

1986年

 岡崎城下を通り抜ける東海道は城を守るために、「二七曲」と呼ばれるほど曲り角の多い道だった。いまでも旧東海道を歩いてみると、それがよくわかる。

 ところで、赤みその代名詞のような「八丁みそ」の起源は遠く室町時代までさかのぼるといわれているが、東海道を旅する旅人たちによってその名が全国に広められていった。

 駿府の安倍川餅や丸子のとろろ汁、桑名の焼はまぐりと同じように、岡崎の八丁みそは東海道の名物になっていった。

八丁みその製品の数々
八丁みその製品の数々

 八丁みその名は地名に由来している。

 現在(1986年)、八丁みそは「八丁味噌」と「太田商店」の2社でつくられているが、両社のある岡崎市八帖町はかつての八丁村。岡崎城から西へほぼ8丁(約870m)のところにあるからだ。そこでつくられる八丁村産のみそがいつしか「八丁みそ」と呼ばれるようになった。

 なお、両社の住所はともに八帖町往還通だが、この往還は旧東海道のことである。

 ところで、われわれ日本人の食生活とは切っても切れないみそだが、大きく分けると、「米みそ」と「麦みそ」、「豆みそ」の3種に分けられる。

 まずは米みそだが、米にこうじをつけ、ゆでた大豆と合わせて発酵させたもの。

 次の麦みそは麦(オオムギやハダカムギ)にこうじをつけ、ゆでた大豆と合わせて発酵させたもの。

 3つ目の豆みそは、蒸した大豆にこうじをつけて発酵させたもので、原料は大豆だけである。

 これら3種のみそで日本列島を見ると、見事に色分けされているのがよくわかる。

 日本の全みその生産量の8割を占める米みそは、東日本から西日本の広い地域を占めている。

 しかし同じ米みそでも、東日本は豆の割合が高くなり、辛口である。代表的なみそとしては津軽みそや仙台みそ、信州みそがあげられる。

 それに対して西日本の米みそは甘口で、米こうじの割合が高くなる。代表的なみそとしては西京白みそや讃岐みそがあげられる。

 麦みそ地帯は四国の西半分と、本州西端の山口県の一部、そして九州が含まれる。麦みそは豆の割合が低く、概して甘口。極端な例では豆をまったく使わない麦みそもある。

 さて豆みそだが、愛知県以外では浜名湖以西の静岡県と岐阜県、三重県が豆みそ地帯になっている。その代表的なものが八丁みそで、そのほか三州みそや三河赤みそなどがあげられる。

 豆みその特徴は、米みそや麦みそのように豆をゆでるのではなく、蒸すのである。蒸した豆をみそ玉にし、こうじをつける。豆を蒸す利点は、豆の持っている栄養分を逃がさないことだ。それと豆をふっくらとさせることができるという利点もある。

 豆みその原料は豆と水と塩だが、八丁みその生まれた岡崎の旧八丁村はそれらのすべてに恵まれていた。

 矢作川の西、「矢作の里」は昔から「矢作大豆」で知られる大豆の名産地だった。

 水はといえば、岡崎の周辺は伏流水が流れ、地下水が豊富。良質な水がいくらでも得られるところだった。

 そして塩はといえば、矢作川の河口に近い吉良は塩の一大生産地で、吉良産の「三州塩」が容易に入手できた。

「塩の道」というのはおもしろい。

 これは余談になるが、吉良産の三州塩は矢作川の舟運で岡崎を経由し、足助まで運ばれた。足助の塩問屋はさらに信州の伊那谷へと塩を運んだ。今でも伊那谷には「足助塩」という言葉が残っているが、三河高原の足助で塩がとれるわけもなく、それは吉良産の三州塩のことである。

 そんな矢作川沿いには点々と「土場」と呼ぶ舟着場があった。旧八丁村にも八丁土場があり、大量の三州塩を揚げることができた。

 それだけではない。足助などの上流からの帰り舟には、みそづくりに使う重し用の川石を積んでくることができた。それらの丸みを帯びた川石は、船頭がみそと物々交換したものだという。

 このように諸々の条件に恵まれたからこそ岡崎の旧八丁村は豆みその産地として発展した。さらに製品を出荷するにも、東海道の陸運があり、矢作川の水運があった。

 八丁みそは水分も塩分も少ない硬いみそである。そのため日持ちがいいので、兵糧食としても最適だった。栄養価の高いチーズを持ち歩くようなものだ。

 三河武士の強さの源は八丁みそであり、徳川家康が天下をとれたのも八丁みそのおかげだという話も聞いた。

「さあ、戦(いくさ)だ。みそを集めろ!」

 合戦になると、そんな号令が発せられたという。

 岡崎城の桜が満開になる頃、「家康祭」が盛大に催される。1000人もの武者行列は、それは見事なものだという。その時、参加者全員に弁当が配られる。その弁当というのは、はるか遠い戦国の世を偲ぶかのように、おにぎりに八丁みその「焼きみそ」を添えたものだという。