賀曽利隆の観文研時代[65]

下関(7)

1976年

要塞の山

火の山の下関要塞跡
火の山の下関要塞跡

 火の山は大昔から狼煙を上げた山なのでその名がる。現在は瀬戸内海国立公園に含まれる下関の観光名所だ。

 火の山の周辺にはホテルや旅館、国民宿舎、ユースホステルがあり、山頂まではロープウェーが通じている。真下には海辺の公園がある。そこは幕末、海峡を航行する外国の艦船に砲撃した、いわゆる馬関戦争の壇の浦砲台跡である。

 火の山山頂からの眺めはすばらしい。関門橋を走る車も、橋の下を行き来する車も、まるでオモチャのように小さく見える。関門橋の向こうには下関の街並み、海峡の対岸には門司の街並みが見える。

 今でこそ、こうして火の山からの大展望を楽しめるが、戦前、戦中では全く考えられないことだった。市民にとっては恐怖の存在の下関要塞があったからだ。

 瀬戸内海をおさえる関門海峡の戦略上の重要性はきわめて高く、海峡を見下ろす火の山に要塞が造られたのは自然のなりゆきだった。

 下関要塞は明治23年から数年がかりで造られた。陸軍が総力をあげて建設した要塞。模範的な要塞として、陸軍大学の学生たちは卒業前に必ず見学に来たという。

 要塞は火の山、老の山、金毘羅山の3つの山の砲台と、椋野、千畳ヶ原、霊鷲山の3つの陣地からなっており、火の山は下関要塞の心臓部になっていた。

 現在も残っている網の目状の地下通路や砲台跡を見た時、徳山の「松野書店」で見せてもらった3枚の下関の古い地図が思い出された。

 1枚は明治32年、2枚目は大正8年、3枚目は大正15年のものであった。

 明治32年の「赤間関(下関)市街旅客案内図」は外国人も利用したのであろう、英語でも書かれていた。

 大正8年の「下関市街新図」には「下関要塞司令部認可」と入っていたが、それでも下関の市街地が詳しく描かれ、海岸線も正確だった。要塞司令部も地図上にあった。

 ところが大正15年の「下関市街地図」になると、下関はすっかりぼかされて、まるで小さな子供の絵地図のような、そんな地図に変わってしまう。それも「下関要塞司令部御認可」と、いかにも下関要塞のご機嫌をとった感じで、「御認可」になっていた。

 昭和初期に発行された下関の対岸、門司の市史も見たが、建物や風景、港湾施設などの写真や地図、図版、風景を描いた絵の1枚1枚に「下関要塞司令部検査済」が入っていた。

 市民は要塞には一歩も近づくことはできず、要塞は秘密のベールに包まれていた。要塞周辺はもちろんのこと、下関、さらには海峡に面した北九州の一帯は要塞地帯として、要塞司令部の許可なしでは、写真撮影どころかスケッチすらできなかった。

 学校の図画の授業は大変だった。

 学校の先生は写生に出るときは、前もって要塞司令部の許可を取り、終わると一人一人の絵を持って司令部に行き、1枚ごとに司令部許可済の印をもらった。卒業写真でも、背景に写った山の姿などは容赦なく消されたという。

 下関市内の名所、旧跡には、「何人といえども許可なく要塞地帯の形状の写真撮影、模写、録取を禁ず」(下関要塞司令部)と書かれた立札が立てられ、カメラをぶらさげて歩こうものなら、たちまち憲兵や特高に尾行されたという。

 そんな話を聞いた時、ぼくは第3次中東戦争直後のエジプトを思い出した。エジプトでは何度も検問を受け、そのたびに写真をとってはいけないといわれた。そしてとある村ではイスラエルのスパイと間違えられ、暴徒と化した村人たちに殺されると観念した。しかし運よく軍隊に救出され、陸軍の基地に連れていかれた。その時、軍のエライ人は、「日本も戦時中は同じだったと思う。それだから今回のことは許してほしい」と言った。

 その時は何を言っているんだと、無性に腹だたしかった。日本にそんな時代があったとはどうしても思えなかったし、思いたくもなかった。しかし、こうして火の山に登り、要塞にまつわる話を聞くと、日本にもエジプトで体験したのと同じような時代があったということがはっきりとわかった。