賀曽利隆の観文研時代[61]

下関(3)

1976年

アジアの十字路

 徳山の松野書店で見せてもらった本や雑誌の中に、『日本の関門』という下関発行の月刊誌があった。大正5年の5月号には、「内地・満州主要列車時刻表」がのっていた。

 東京発下関行の列車は1日に4本出ていた。一番速い列車で28時間、普通だと50時間かかっている。

 その時刻表には朝鮮、満州の時刻表ものっていた。さらに目を奪われたのは、「下関→レニングラード」という欧亜を結ぶ列車の時刻表だ。

 下関水:10時10分南大門木:6時50分
 南大門木:7時10分奉天木:23時10分
 奉天木:23時50分長春金:7時10分
 長春金:9時哈爾賓(ハルビン)金:15時
 哈爾賓金:16時55分莫斯科(モスクワ)1週間後の金:6時40分
  レニングラード土:10時35分

 下関→釜山は関釜連絡船、釜山からは朝鮮鉄道の京釜線(釜山〜京城)、京新線(京城〜新義洲)で満州へ。南大門は京城の駅。新義洲から鴨緑江を渡ると満州に入り、満鉄になる。

 奉天の手前で「大連〜長春」間の満鉄の幹線に合流し、長春でロシア鉄道に接続する。

 交通の要衝の長春は、のちに満州国の首都になり、新京と呼ばれるようになる。

 明治29年の李ーロバノフ条約により、鉄道の敷設権を得たロシアは、シベリア鉄道本線のウラジオストックーモスクワ間に先立ち、ハルビンを経由し、遼東半島に通じる東清鉄道を完成させた。その東清鉄道のうち、長春以南は日露戦争後、南満州鉄道(満鉄)になった。

 シベリア鉄道本線の全線完成は大正5年。ハルビンからチチハル、チタ、イルクーツクを経由し、モスクワまで1週間で行けるようになった。その結果、下関からレニングラードまでは、10日あまりで行けるようになったのだ。ヨーロッパまでは船だと40日〜50日はかかった時代である。

 時刻表には鉄道のほかに、関門連絡船と関釜連絡船の時刻表ものっていた。それによると、関門連絡船は午前5時15分から午後10時50分まで計26便、関釜連絡船は午前10時10分と午後9時40分の2便、下関港から出ていた。

 また別の号には大阪商船の広告がのっていた。

 それには「関門出帆汽船定期表」が出ていた。

 米国線月1便東航線(神戸ー横浜ータコマーシアトル
ーバンクーバー行)
西航線(上海ー香港行)
 孟買(ボンベイ)線月1便香港ー新嘉坡(シンガポール)
ー彼南(ペナン)ー古倫母(コロンボ)ー孟買行
 基隆線月4便基隆直行
 大連線月2便大連直行
 打狗(高雄)線月2便長崎ー基隆ー澎湖島ー安平(台南)ー打狗行
 天津線月6便天津直行
 青島線月2便青島直行
 安東線月2便仁川ー鎮南浦ー安東行
 清津線月3便釜山ー元山ー西湖津ー新浦ー城津ー清津行
 仁川線週3便釜山ー馬山ー木浦ー群山ー仁川行

 これだけの定期船が下関、門司の関門港から出ていたのだ。

『日本の関門』というこの雑誌の1ページ、1ページに目を通していると、「我が国の表玄関たる下関は…」という表現が度々、出てくる。

 戦前の第75帝国議会で議決された「弾丸列車計画」も、東京と下関を結ぶものだった。総工費5億6000万円という、当時としては膨大な巨費を投じ、昭和15年には着工し、15年後には完成させるというものだった。

 最高時速200キロの列車が「東京〜下関」を9時間で結ぶはずだった弾丸列車の新しい下関駅は現在の下関駅の北、桜山に予定されていた。

 江戸時代には上方と北国を結ぶ北前船の中継地で繁栄し、「西の浪華」とまでいわれた下関だが、近代になると対岸の門司を含めた関門は文字通りの「日本の関門」になり、アジアの十字路といわれるような重要な位置を占めるようになったのである。

下関側から見る関門海峡