賀曽利隆の観文研時代[60]

下関(2)

1976年

関釜連絡船 

 下関駅に着いて真っ先に行ったのは旧下関駅である。

 昭和17年に関門海底トンネルが完成したが、それまではまさに本州の終着駅であり、朝鮮、満州への玄関口になっていた。

 現在の下関駅から、駅前を通る幅広の国道を東に800メートルほど歩くと、西細江バス停に着く。細江の交差点の角には中央公民館、向かい側には下関警察署がある。中央公民館と下関警察署の間を入ったところに旧下関駅はあった。

 近代日本の歴史上、重要な舞台となった旧下関駅だが、現在そこには引き込み線の貨物貨物取扱駅があった。その前には国鉄ビル(広島鉄道管理局下関出張所)が建っている。引き込み線の線路を渡ると岸壁に出る。関門海峡の対岸には門司の街並みが見える。その背後には企救半島の山並みが連なっている。大小様々な船が関門海峡を行き来し、門司港には何隻もの大型船が停泊している。

 関門海峡と関釜海峡という2つの海峡に面した下関にとって、この岸壁こそがシンボルだった。下関と門司を結ぶ関門連絡船、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の発着する埠頭だ。しかし今では岸壁に立っても、当時の面影は何も見いだせない。小雪まじりの冷たい風に吹かれながら、しばらくは関門海峡を眺めていた。

 関釜連絡船が下関の岸壁を離れていく時のことを思った。戦地に向かう軍人たち、満州開拓団の農民たち、肉体を売る薄幸な女性たち、国内で食いつめ逃げるようにして船に乗った人たち、大陸で一旗揚げようと海外雄飛で目指す人たち…。

 ふるさとに家族を残した人、友人や恋人に一生の別れを告げた人もいたことだろう。そんな人たちにとっては、身を切られるほど辛い船出であったに違いない。次第に離れていく祖国の風景に、どれだけ多くの人たちが涙を流したことか。

 関釜連絡船の歴史は、日本の大陸への進出、侵攻、支配と密接な関係がある。

 明治27年(1894年)に日清戦争が始まった。日本は勝ち、翌年、下関条約が結ばれた。山陽本線の前身、山陽鉄道の「神戸〜下関」間が開通したのは明治34年(1901年)。その4年後の明治38年(1905年)に関釜連絡船は運航を開始した。朝鮮鉄道の「京城(現ソウル)〜釜山」間の開通に合わせての就航。その前年に起きた日露戦争の幕引きとして、ポーツマス条約が調印された年である。

 明治39年(1906年)には、鉄道が国有化された。満州においては大連に関東都督府が置かれ、半官半民の南満州鉄道株式会社が設立された。満鉄は日本の満州支配の第一歩になった。

 明治43年(1910年)には、日韓併合条約が調印された。京城に朝鮮総督府が置かれ、日本の植民地としての歴史が始まった。

 このような時代背景のもとで関釜連絡船は就航し、飛躍的な発展をとげていく。

 現代の関釜連絡船ともいえる関釜フェリーのターミナルビルの近くには鉄道桟橋跡を記念する石碑が建っているが、それには関門航路と関釜航路の歴史がわかりやすく書かれている。

 下関鉄道桟橋は、明治34年5月の関門航路、同38年9月の関釜航路開設に伴って、大正3年7月に本格的な岸壁を築造、その歴史的な第一歩を印した。

 その後関釜航路は隆盛の一途をたどり、昭和11年には、当時わが国の優秀船として海運界に注目された7000トン級の金剛丸型が就航した。さらに昭和17年には8000トン級の天山丸型が就航し、これらの出入りの船が長さ562メートルの大岩壁を圧し、多くの人々に愛され、親しまれた。

 しかし、これら国鉄の誇った海の女王たちも、第2次大戦でほとんどが沈没、座礁するなどの大打撃を受け、昭和20年8月、終戦とともに関釜航路は営業を中止した。

 一方の関門航路は、本土、九州間の幹線として、また関門市民の足として親しまれたが、関門鉄道トンネルの開通などにより、昭和39年10月にその使命を終えた。

 鉄道桟橋跡の記念碑の裏には関釜航路、関門航路の足跡と船名が記されている。

関釜航路と関門航路の歴史
関釜航路と関門航路の歴史

 長崎の三菱造船所で壱岐丸(1660トン)が完成するやいなや、あわただしく就航させ、関釜連絡船の歴史は明治38年9月12日に始まった。つづいて11月には姉妹船の対馬丸が就航し、「下関〜釜山」間は1日1便になった。

 下関発19時、釜山着6時。
 釜山発22時、下関着9時。

 このようなダイヤでの11時間あまりの航海であった。

 当時は下関にも釜山にも壱岐丸や対馬丸のような大型船の接岸できる桟橋がなく、連絡船は沖で停泊し。乗客はランチで乗り降りした。

 連絡船を運航したのは山陽鉄道傍系の山陽汽船で、東海道線、山陽線、関釜連絡船、朝鮮鉄道の京釜線と通しで、東京から京城までの切符を買うことができた。

 東京の新橋駅(東京駅の開業は大正3年)から京城駅までの運賃は、1等が42円83銭、2等は27円3銭、3等は14円78銭であった。

 山陽汽船は政府の大陸進出政策におおいに期待したが、翌明治39年には山陽線も関釜連絡船も国有化された。

 当時としては最大の連絡船として登場した壱岐丸と対馬丸だが、乗客の急増には追いつけず、大正2年には高麗丸と新羅丸(ともに3108トン)が就航し、関釜連絡船は1日2往復になった。

 関釜連絡船の乗客数が急増するのは、昭和6年の満州事変後のことである。風雲急を告げる大陸の情勢を背景にして、関釜連絡船の重要度は飛躍的に増した。

「玄海の女王」とうたわれた金剛丸と興安丸が就航したのは、日華事変(昭和11年)の直前であった。さらに大きい天山丸と崑崙丸が就航したのは太平洋戦争中で、昭和17年の年間利用者は300万人を超えた。その頃が関釜連絡船の最盛期だった。

 関釜連絡船の船名の移り変わりが興味深い。

 最初は壱岐丸、対馬丸、次が高麗丸、新羅丸、その次は朝鮮の王宮名をとった景福丸、徳寿丸、昌慶丸になる。そして朝鮮の名山の金剛山からとった金剛丸、満州の大興安嶺山脈からとった興安丸へとつづき、最後は中央アジアの天山山脈、崑崙山脈にちなんだ天山丸、崑崙丸で終わっている。