賀曽利隆の観文研時代[59]

下関(1)

1976年

下関に行きたい!

 本州西端の町というだけで下関には憧れる。地の端というのは人の心をひきつけてやまない何かがあるようだ。

 アフリカ大陸最南端のアグラス岬を思い出す。岩のゴツゴツした岬の先端に大洋の荒波がぶつかって砕け散る。岩の上に立って大海原を眺めながら、わけもなく「ワーッ!」と大声を上げた。ここまでやって来たうれしさを押さえきれなかったのだ。

 アフリカ大陸にもうこれ以上、南の世界はない、自分は今、その地に立っているという思いがたまらなかった。

 岬突端の岩を下り、その右側で海水を手ですくって顔を洗った。

「これが大西洋だ!」

 左側でも同じようにする。

「これがインド洋だ!」

 海に境界線などあるはずもないが、一本の栓を境にして大西洋とインド洋の2つの海を見ているかのような気分になった。

 下関に憧れ、下関に行ってみたいと思ったのは、多分にアグラス岬に立って感動した時の気持ちに相通じるものがあったと思う。

 アグラス岬はまさに地の涯だったが、しかし下関は違う。

 本州の西端とはいうものの関門海峡をはさんで九州を間近に見る。さらに「関釜海峡」といってもいいような海峡の向こうには朝鮮半島がある。その背後には広大なユーラシア大陸が横たわっている。下関は2つの海峡の町なのだ。

 下関は本州の端ではあるが、けして文化のはてる所ではない。それどころか古代から大陸の文化が流れ込む地であった。近代日本においては大陸への玄関口になっていた。下関の歴史ははかりしれないほど長い。

 下関に魅せられたもうひとつの理由は、その長い歴史であった。

「下関に行ってみたい!」

 そう思うと、ますます行きたくなる。行かないことには気持ちのおさまりがつかないほどになった。

「下関には絶対に行こう。関釜海峡を渡って釜山まで足を延ばそう!」

夜行列車で東京を発つ

『あるくみるきく』125号の「下関・2つの海峡の町」
『あるくみるきく』125号の「下関・2つの海峡の町」

 観文研(日本観光文化研究所)発行の月刊誌「あるくみるきく」の取材で下関に行けるようになったのは、1976年12月のことだった。

 ぼくは夜行列車で東京を出発するのが好きだ。これから旅に出るという気持ちを肌で感じることができるからだ。

 東海道線の23時28分発の大垣行きに乗った。普通列車だ。勤め帰りの人たちがあわただしく駆け込む発車間際。列車の発車べるが鳴り響く。

 東京の夜景を見ながら缶ビールを飲む。舗装路は冬の雨に濡れ、灯りに照らされたところだけが白く浮き上がっている。寂しげな都会の夜景とはうらはらに、
「下関に行ける、釜山にも行ける、東京駅から大陸に渡れる!」
 と思うと、それがうれしくて心が弾んだ。

 東京を出発する何日か前に観文研の先輩、向後元彦さんの岳父の深津七郎さんにお会いしたが、その時に聞いた話を思い返した。戦時中に満州の撫順に行った時の話だ。

 深津さんのおじさんにあたる方が、撫順炭田の炭層上にある豊富な粘土と、良質な石炭を使って土管工場を経営していた。昭和17年3月に深津さんは、瀬戸の焼き物職人を連れてそこに向かった。

「東京駅を発ったのは午後1時発の特急富士でした。翌日の9時には下関に着き、接続している関釜連絡船に乗りましたよ。朝鮮が日本の領土であり、関釜連絡船という海の幹線があったせいか、あまり外国に行くという気はしませんでしたね。玄界灘は荒れていました。大波が甲板を洗っていたのをおぼえています。

 あの頃は太平洋戦争に突入してまだ4ヵ月もたっていないというのに、海峡にはアメリカ軍の潜水艦が出没するというので、船内には緊張した空気が漂っていました。日本軍は各地で連戦連勝していると聞かされたのですが、あの時、はっきりと戦争のゆくすえに暗い影を感じましたね。

 釜山には暗くなりはじめた頃に着いたのですが、内地と朝鮮では1時間の時差があったと記憶しています。釜山では何の検査もなく、連絡船に接続している奉天(現瀋陽)行きだか、新京(現長春)行きの特急列車に乗りました。

 次の朝にはもう鴨緑江を渡っているのですよ。鴨緑江には一面に氷が張っていました。あの氷の張った鴨緑江の風景は忘れられません。

 鴨緑江を渡ると満州ですが、車内で検査がありました。撫順に行くのには奉天の手前で乗り換えます。東京駅を出てから3日で撫順に着いてしまったのだから、それはもう驚きでした。東京から満州への鉄道や連絡船というのは、今でいう新幹線ですね。それほど速く、便利で、下関はそんな新幹線のまさに中継点でした」

 深津さんの話の中でとくに印象に残ったのは、東京駅で撫順までの切符が買えたということだった。

下関に到着!

 遠く、はるかかなたから聞こえてくる「名古屋、名古屋」のアナウンス。夢を破られてあわてて飛び起き、列車を下りた。名古屋着は6時10分。夜はまだ明けない。名古屋駅のホームで「きしめん」を食べた。

 名古屋から広島までは新幹線。広島で鈍行に乗り換え、山口県に入った。

 徳山で途中下車する。徳山の繁華街にある「松野書店」に寄るためだ。店主の松村久さんには東京を出発する前、下関についての本や資料を見せてほしいと、お願いしてあった。

 松野書店は主に古本を扱っているが、ただ売っているだけではない。観文研の先輩、神崎宣武さんの書いた『防長紀行・やきもの風土記』の出版元であり、郷土に関しての新刊書や復刻本を意欲的に出している。

 松村さんは目を通すのに一日がかりになるほどの下関の歴史書や地誌、古地図などをそろえておいてくれた。さっそく見せてもらったが、それだけではなく一晩、お宅に泊めていただき、下関についての話をいろいろと聞かせてもらった。

 翌日、徳山から下関に向かった。よく晴れていた。車窓から眺める周防灘はやわらかな日差しを浴びて、まるで春の海を思わせた。ところが列車が宇部に近づくと天気は崩れ、雪が降り始めた。雪というよりも、紙吹雪が強風に舞っているように見えた。

 小野田、厚狭、埴生と過ぎ、トンネルに入った。短いトンネルを抜けると、吉田川河口の小月平野が広がっている。下関市に入った。鈍行列車は小月、長府、新下関、幡生の各駅に止まり、終点の下関に着いた。

 下関駅は構内の待合室や食堂、商店街、トイレなどはゆったりしていて、かつての日本の終着駅を感じさせた。

 東口の駅前広場に出た。冷たい風にのって小雪が舞っている。肌に刺さってくるような季節風も、「下関にやってきた!」と思うと、あまり気にもならなかった。