賀曽利隆の観文研時代[62]

下関(4)

1976年

旧下関駅

 翌日、下関駅が細江にあった頃の話を聞きたくて、もう一度、細江に行った。

 ちょっと迷った末に、下関警察署に入った。

「あの…、関釜連絡船が行き来していた頃の、元の下関駅の話を聞きたいのですが…」
 と、警察署という固い雰囲気にのまれ、声をつまらせながら受付の若い警察官に聞いてみた。すると年配の警察官を呼んでくれた。ものごしのやわらかな方で、「もう30年以上も昔のことだから」といいながら話してくれた。

「あの当時、細江の一帯はにぎやかでしたよ、現在の下関駅がある竹崎は場末でしてね。今は引き込み線になっているけれど、突き当りに貨物駅がありますね、下関駅はあそこでした。立派な駅でしたよ。門司港駅みたいな、あんな感じの建物でした。なにしろ下関といったら、日本の鉄道の基点のようなところでしたからね。

 駅前の埠頭から関門連絡船が、その先からは関釜連絡船が出ていました。

 国鉄ビルがあったでしょ。あそこは山陽ホテルという鉄道省直営の駅前ホテルで、道をはさんだ反対側には浜吉旅館がありました。ともに当時のままの建物です。

 山陽ホテルの隣は、警察署の前になりますが、下関郵便局でした。警察署は以前のままの場所です。その隣は山陽百貨店で、6階建のデパートはにぎわっていました」

 年配の警察官はやさしい方で、わかりやすいようにと、当時の下関駅周辺の略図を描いてくれた。

 それを見ながら、さらに話してくれた。

「細江の交差点までは唐戸の方から路面電車が来ていて、ここから先、竹崎へは道幅が狭くなっていました。大通りの向こう側に路地が見えるでしょ。あの両側に土産物屋がずらりと並んでいました。大陸に渡る人たちが連絡船に乗る前、内地の思い出にと、みやげものを買ったところです。その先は豊前田の遊郭街で、下関では一に豊前田、二に唐戸、三に新地といわれるくらいのところですよ」

 下関警察署の年配の警察官は懐かしそうに話してくれたが、お礼を言って別れると、もう一度、旧下関駅の周辺を歩いてみた。

 山陽ホテルは古さの中にも、華やかだった当時の面影をとどめていた。歌舞伎座風の浜吉旅館は木造三階建で、繁盛した駅前旅館を感じさせた。

旧山陽ホテル
旧山陽ホテル

 大陸に渡る人、大陸からやって来た人、どれだけ多くの人たちが山陽ホテルや浜吉旅館に泊ったことか。

 下関で昔から書店をやっている谷昇一さんにも話を聞いた。

「あの当時、山陽ホテルには多くの有名人が泊りましたね。ひと晩泊って、次の日の列車で東京に向かったり、連絡船に乗って釜山に渡ったものです。私は京城大学とか北京大学などの先生方との知り合いも多く、先生方はたいてい山陽ホテルに泊まりました。山陽ホテルに本を届けにいったり、下関の町を案内してあげたり。今となっては懐かしい思い出です。

 向こうでは日本語の本があまり手に入らなかったのでしょうね、日本語の本を石油缶いっぱいに買って帰るお客さんも珍しくはありませんでした」

 細江の旧下関駅の周辺が寂れていくのは、関門海底トンネルの開通後のことだ。

 関門トンネルの構想は明治末にはあったという。昭和11年に工事が始まり、昭和17年には全長3614メートルの下り線が開通した。それとともに、下関駅は細江から竹崎に移された。新しい下関駅は新駅、細江の元の下関駅は旧駅と呼ばれたという。昭和19年になると上り線も開通し、関門鉄道海底トンネルは完成した。

 旧山陽ホテルの前に立った。

 目を閉じ、耳を澄ますと、旧下関駅前の雑踏が聞こえてくるようだった。一瞬たりともとどまることのない時の流れ、刻一刻と移り変わっていく時代の流れに、いいようのない悲しみをおぼえ、胸がつまるのだった。