賀曽利隆の観文研時代[63]

下関(5)

1976年

崑崙丸の悲劇

 細江の旧下関駅前からまっすぐ山の手に上がっていく。

 長い石段を登ると、上は日和山公園。そこには高杉晋作の像と崑崙丸の慰霊塔が建っている。

 崑崙丸は昭和18年に就航した最新鋭の関釜連絡船。前年に就航した天山丸の姉妹船で、7907トンの大型連絡船。その崑崙丸は就航半年後の昭和18年10月5日午前1時20分、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、一瞬にして沈没した。乗船していた655人のうち、生存者はわずか72人という悲惨な事件だった。

 数少ない生存者の一人、崑崙丸の操機手をしていた湊国光さんは、山口県の近代史の本に、次のような原稿を寄せている。

「大本営発表の連戦連勝を信じ、日本近海に米潜水艦が侵入するなど夢想もしなかった崑崙丸は、定刻通り釜山に向けて出港した。非番の私は出港後、火夫2、3人と夜食をとった。『ほしくもない夜食を寝る前に食べるのは、船員はいつどんな変事にあうかわからない。まして今は戦時下、腹を十分にこしらえていたため、命が助かったことはよくあることだ』と冗談をとばしあったが、まもなくこれが現実になるとは露知らず、部屋に戻り、ひと眠りした。

 突然、ドーンというものすごい音でとび起きた。何だろうと不審に思ったのもつかのま、部屋が傾き出した。沈没だと直感し、無意識のうちに服を着て、救命具を身につけて甲板に飛び出した。目の前には高くつき上がった船首があり、右舷には群がるようにして人々が必死にすがりついていた。

 パイプの破裂する大きな音が3度、響き渡り、しぶきが顔に打ちつけてきた。『あっ』と思った瞬間、体は海中深く吸い込まれ、心臓は早鐘のように鳴り、息苦しくなった。

 もうダメだ思ったとき、天の助けか、神のご加護か、ぐんぐん引き込まれていた体が急に水面に上がった。あたり一面、豆をまいたように黒い人の頭だ。泣きわめく者、力の限り助けを求める者、まさに生き地獄そのものだった」

 崑崙丸の悲劇は関釜連絡船の悲劇であり、下関にとっての悲劇でもあった。

 関釜連絡船の末路は哀れだ。崑崙丸のあと、連絡船は次々に敵の攻撃を受けて沈没、または座礁し、航行不能になっていく。大戦末期の関釜海峡は「死の海」と化し、終戦を目前にした昭和20年6月20日、関釜連絡船は40年あまりの歴史に幕を閉じた。

 戦争が終わっても、関釜連絡船の華やかな歴史は戻らなかった。それと同時に、下関の日本の終着駅、大陸への表玄関、アジアの十字路としての歴史も終わった。

 日和山公園から石段を下り、下関港の岸壁にずらりと並ぶ倉庫街を歩く。倉庫には三菱や三井、渋沢といった旧財閥の名前やマークが入っている。倉庫は色あせ、朽ち始めた印象すら与える。下関港の倉庫街を歩いていると、「斜陽」という言葉が連想され、その言葉が下関と重なった。

下関港の倉庫街
下関港の倉庫街