賀曽利隆の観文研時代[42]

常願寺川(10)

 芦峅寺での3日目はXL250を走らせ、常願寺川の支流、和田川の有峰湖に向かった。芦峅寺から2キロほど下った地点で常願寺川にかかる鉄橋を渡ると小見に着く。そこが常願寺川と和田川の合流地点。小見から和田川沿いに走り、最後の集落の亀谷を過ぎるとダートに突入。最初のうちこそ雪もなく、路面も凍っていなかったが、目もくらむような谷沿いの道を登っていくにつれて雪が多くなった。それよりも怖いのは氷。薄氷だとバリバリ音をたてて、氷を割って進んでいけるが、厚く張った氷だとツルッと滑って転倒してしまう。

 暗いトンネルを抜け出ると、難所のS字カーブに入っていく。勾配の急な登り坂。エンジンの回転を上げても、後輪は氷の上で空転するだけで前には進めない。仕方なくバイクを降りて、半クラッチを使って押し上げたが、足が滑ってステーンとひっくり返った。つづけて2度目、3度目の転倒。わずかな登り坂で4回も転倒し、その難関を何とか突破した。

有峰湖への雪道
有峰湖への雪道

 雪と氷との戦いの連続で、もうヘトヘトになって有峰ダムに到着。ダム湖の有峰湖を眺めた。目の前に迫る立山連峰の雪の白さが際立っていた。

 有峰湖を眺めながら、「大仙坊」の若奥さんがつくってくれたお弁当を広げる。おにぎりのほかにスルメとミカンが入っていた。

 こうして有峰湖を眺めていると、前夜、「大仙坊」のおじいさんに聞いた話が鮮やかに蘇ってくる。

 この湖の下には有峰という集落があったという。標高1000mの高地にある有峰は、よその世界とは隔てられた平家の落人伝説の伝わる集落だった。有峰の人たちは越中よりも、大多和峠を越えた飛騨側との結びつきの方が強かったという。

 有峰ダムの建設計画が持ち上がったのは大正時代のことだという。村人たちは補償金をもらい、富山へ、高山、岐阜へ、さらには大阪、東京へと出ていった。

 都会に出ていった人の中には、その後、惨めな生活を送る人も少なくなかった。清らかな水の流れと、立山の澄んだ空気の中から、都会の汚れた空気の中に放り込まれた人たち。人を疑うことを知らなかったばかりに補償金の大金をだまし取られ、着のみ着のままになった人もいたという。

 有峰ダムの建設は遅れに遅れ、昭和36年になってようやく完成した。高さ140m、堤頂の長さ500m、総貯水量2憶トンという常願寺川水系では最大のダムだ。

 昼食を食べ終わると有峰ダムを出発し、折立峠を越えた。峠は短いトンネルで貫かれている。峠のトンネルを抜け出ると、目の前を常願寺川源流の真川が流れている。暴れ川の常願寺川とは似ても似つかない小さな流れ。真川の流れを見たところで折立峠に引き返し、有峰ダムから芦峅寺に戻った。