常願寺川(7)
「大仙坊」のおじいさんの話はつづく。
「加賀人が白山にいだく尊崇の念よりも、越中人の立山にいだく尊崇の念の方がはるかに強いように思います。越中の男は立山に登ってはじめて一人前になれたのです」
「立山を開山したのは越中国司佐伯有若の息子の佐伯有頼だといわれています。最初は常願寺川をはさんで芦峅寺対岸の本宮を拠点にしていました。それがいつの頃からか芦峅寺に移り、芦峅寺が立山信仰の中心地になっていったのです」
「立山信仰は神仏混淆で、神も仏も分け隔てなく信仰しました。立山は修験の山で、その修験者たちが大活躍したのは南北朝時代から戦国時代の動乱の頃で、後の忍者の元になったともいわれています」
「修験者(山伏)はどういう生活をしていたのですか?」
「半僧半俗というのでしょうか。妻を持って家庭を作り、田畑を耕していました。仏門に入った僧よりももっと庶民の中に入り込み、人々の悩みを聞いてあげていたようです」
「芦峅寺が最も栄えたのはいつ頃のことですか?」
「江戸時代になってからのことです。加賀前田藩は芦峅寺に手厚い保護を加え、その結果、佐伯一族を中心にして、三十三坊と五社人から成る強固な立山一山(たてやまいちざん)が組織されました。それぞれの坊は全国に檀那場と呼ばれる受け持ち国を持っていました。たとえば大仙坊は尾張の半分、隣の善道坊は三河、泉蔵坊は遠江・甲斐、等覚坊は陸奥、吉祥坊は武蔵、一相坊は肥後といったふうに、薩摩とか大隅を除けば全国に檀那場を持っていたのです。立山の山開きは旧暦の6月15日ですが、それから2ヵ月の間に、加越能(越中・加賀・能登)を中心にして、全国から6000人を超える人たちが立山を参拝したといわれています」
「宿坊はどんなことをしたのですか?」
「宿坊の主人は立山衆徒と呼ばれました。立山衆徒は正月の下旬から諸国の檀那場をまわり、お札配りをしました。家来と呼ばれた下僕を一人、連れていきました。衆徒のいでたちは上半身は白装束で、頭陀袋に折袈裟を掛け、腕には小手をしていました。越中立山中宮寺とかかれた笠をかぶり、腰には鈴をぶらさげ、右手に錫杖、左手に念珠を持ちました。檀那場では立山信仰を説き、立山に来なさいと進めたのです。その時にお札を配り、立山曼荼羅の絵解きをしました。それには立山がどのようにして開かれたのか、どれだけありがたいところなのか、地獄がどんなところなのかといったことを絵でもって人々にわかりやすく示したのです。さらに死んだときに着せる経衣(きょうかたびら)というものを村々の有力な檀家に置いておきました。次の年に行った時に使った分だけ補充し、代金もその時にもらいました。富山の薬売りの原型ですね。そもそも富山の置薬も、立山衆徒がお札と一緒に熊胆(くまのい)を持って歩いたところから始まったものです。4月になると檀那場から芦峅寺に戻り、夏になるとやってくる立山信仰の登拝者のめんどうをみたのです」
「立山信仰はいつ頃からすたれていったのですか?」
「明治の神仏分離令によって神社と寺が分けられてからのことですね。加賀藩からの寄進がなくなり、何千という仏像が売られたり、捨てられたりしました。芦峅寺は荒廃し、立山一山の衆徒は全員が神主にさせられました。年を経るごとに宿坊の数は減り、檀那場をまわる人もほとんどいなくなりました。戦前まで続けていたのは私のところと善道坊、泉蔵坊ぐらいのものです」
「大仙坊」のおじいさんからは3時間以上も話を聞いた。
おじいさんが最後に言われた「よくお宮参りをする人は、お寺参りもよくするものですよ」は心に残った。その一言はまさに立山信仰に通じるもので、自然を崇拝し、神を信じ、仏を信じる日本人の心の柔らかさ、日本文化の柔らかさそのものだと思った。
これは後でわかったことだが、おじいさんは雄山神社宮司の佐伯幸長さんで、『霊峰立山』、『立山信仰の源流と変遷』、『立山風土記の丘』という3冊の著書のある方だった。