賀曽利隆の観文研時代[30]

『海を渡った日本の焼きもの』

『海を渡った日本の焼きもの』(ぎょうせい刊)。1985年に出版された

 日本観光文化研究所(観文研)の企画・編集で1985年には、『海を渡った日本の焼きもの』(ぎょうせい刊)が出版された。

 江戸期の鎖国日本の花形輸出商品の「イマリ」を追ったものだ。有田で焼かれ、伊万里から船出した伊万里焼の「イマリ」は、今の時代でいえば「トヨタ」のようなものだ。日本の外貨の稼ぎ頭だった。

 この「海を渡った日本の焼きもの」のうち、カソリは「アジア編」を担当。まずは香港・マカオに行った。香港・マカオの骨董屋を歩きまわったが、残念ながら古伊万里はみつけられなかった。

 マカオ滞在の最後の日に、ワンデーツアーで中国に行った。その途中、広東省中山県の戸数100戸ほどの村で、自由に歩きまわれる機会を得た。

 とある家の勝手口で碾き臼をみつけ、写真を撮らせてもらった。その家ではさらに台所を見せてもらい、台所道具を見せてもらった。

 見終わると、家の主人に居間に呼ばれ、お茶を出された。

 そのときぼくは「あっ!」と驚きの声を上げた。

 調味料や塩辛の入った瓶類、ランプ、トランジスタラジオなどの置かれた棚に、高さが尺五寸(約45センチ)のイマリの花瓶があったからだ。

 梅と椿の花柄の下に、着物を着た美男、美女が描かれた赤絵磁器。まさに18世紀から19世紀にかけて盛んに焼かれたイマリだった。

 家の主人はそれが日本の焼きものであることはよく知っていたが、どのようにして手にいれたのかは、わからないという。代々、この家に伝わっているものだという。

 香港・マカオの次はマラッカ(マレーシア)だ。マラッカ海峡に面したマラッカの町は、かつては世界の東西貿易の拠点として繁栄を謳歌した。ここではオランダ総督府の建物をそのまま利用したマラッカ博物館を見学。博物館の一番奥の一室が陶磁室になっていた。中国の明、清時代の染付磁器が大半を占めていたが、イマリの染付大皿も何点か見られた。しかしそれらは鮮やかなコバルト(青色)を使った銅板転写の染付で、古伊万里ではなく、明らかに明治以降のものと思われた。

 そのあと骨董屋街を歩いたが、ここでは何点もの古伊万里を見た。驚いたのは「イマリ」という言葉がよく通じることだ。店の主人は流暢な英語で話してくれた。

「イマリは中国系の焼きもの通なら誰でもが知っているよ。ミン(明代の染付磁器)よりも新しいけれど、チン(清代の色絵磁器)も古いからね。コレクターの多くはイマリを欲しがっているよ」

 最後はインドのボンベイ(現ムンバイ)だ。ここでも骨董屋街を歩いた。古伊万里はみつけられなかったが、「イマリ」はじつによく通じる。骨董屋街から博物館へ。「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」に行くと、ここには古伊万里があった。

 ボンベイには焼きものに詳しい共同通信文化部の土岐浩之さんが同行してくださったが、土岐さんは『海を渡った日本の焼きもの』の中で次のように書かれている。

「あった!」

 薄暗い陳列室のガラスのなかから、いきなり目に飛び込んできたのは、色鍋島の鮮やかな色彩だった。尺八寸(一尺八寸=約55センチ)の大皿である。桜に幔幕、抱き茗荷紋、ぼたんの花をあしらってある。鍋島藩の紋所が、はるか西インドの港町まで来ていることに奇妙な感懐を覚えた。

 隣には一尺の菊花文の深鉢がある。まぎれもなく江戸後期のイマリである。それも、かなりの逸品である。

 柿右衛門様式の耳付きの八角鉢(六寸)もある。これも江戸後期か幕末あたりの作品か。残念ながらガラス越しなので判定できない。

 ー中略ー

 ヨーロッパに数多くのイマリが流出したことはよく知られているが、インドの西の果てであるボンベイで、これだけの数の古伊万里や色鍋島を、柿右衛門を見ることができるとは、期待していなかっただけに喜びも大きかった。
  
 この『海を渡った日本の焼きもの』でひとつ残念だったのは、アジア西端のトルコまで足を延ばせなかったことだ。イスタンブールのトプカピ宮殿には、数多くの古伊万里があることはよく知られていた。

 観文研解散(1989年3月31日)後のことになるが、その翌年、50ccバイクのスズキハスラー50を走らせて「世界一周」を成しとげた。イスタンブールには何日か滞在し、アヤ・ソフィア寺院やスルタン・アフメッド・モスク(ブルー・モスク)などのモスクをめぐり、トプカピ宮殿の古伊万里を見た。

 この時のことは、我が著書『50ccバイク世界一周2万5000キロ』(JTB刊)を読んでいただこう。

 東ローマ帝国を滅ぼし、オスマントルコを打ち立てたメフメット王が1564年から15年の歳月をかけて造り上げたのがトプカピ宮殿。それ以降、350年間、オスマントルコの王たちが代々住む宮殿となった。

 1923年のケマル・アタチュルクの革命後は博物館になっている。その展示がすごいのだ。

 ダイヤを無数に散りばめた玉座や、数多くの宝石類には目を奪われてしまう。

 中国製陶磁器の収集も見事なものだ。それに隣り合って、日本製磁器の「古伊万里」のコーナーがある。日本でもめったに見ることのできないような赤絵の大壺や大皿など、全部で200点あまりが展示されているのだ。

 そこには英語での説明があった。直訳すると、次のようなものだ。

「このコレクションは17世紀から19世紀にかけて日本から輸出されたもので、九州の有田でつくられました。伊万里焼で知られていますが、有田に近い伊万里港から船積されたので、その名があります」

 鎖国体制下の江戸時代にあって、磁器の製造技術を飛躍的に向上させた有田は、17世紀の後半から19世紀にかけて、長崎・出島のオランダ東インド会社を通して、ヨーロッパ各国に伊万里焼を盛んに輸出した。伊万里焼は当時の日本の華やかな輸出商品だった。

 ヨーロッパの古城などでは、中国製の磁器とともに古伊万里の壺を飾っているところが少なくない。

 日本でも有田の「九州陶磁文化館」や足利(栃木県)の「栗田美術館」には古伊万里のコレクションがある。だが、世界中を探しても、トプカピ宮殿ほどの古伊万里のコレクションはないであろう。あらためてオスマントルコのすごさを感じてしまうのだ。

 薄暗いトプカピ宮殿を出て見晴台に立つと、目の前にはまっ青なボスポラス海峡が広がっている。1隻の大型貨物船が青い海峡を地中海の方向へと進んでいく。海峡の対岸はアジア側のウスクダルの町。そんな欧亜を分ける海峡を見ていると、たまらない気分になってくる。アジア東端の日本とアジア西端のトルコ。その両国の古伊万里を通してのつながりに思いを馳せた。

「古伊万里」は遥か遠く喜望峰を越えてヨーロッパへ。そのヨーロッパ経由の「海上の道」でイスタンブールに入ってきた。このイスタンブールは「陸上の道」のシルクロードの終点でもある。

 シルクロードの全域を踏破したいぼくにとって、トプカピ宮殿から見下ろすボスポラス海峡は何とも刺激的な眺めで、
「また、きっと来るからな!」
 といった熱い想いで、海峡の風景を目に焼きつけるのだった。

 1990年の「50ccバイク世界一周」から16年後の2006年には、夢の「シルクロード横断」を実現させた。中国の古都、西安を出発し、中央アジアの国々を通り、イスタンブールまでの1万3000キロを走破した。

 イスタンブールに到着すると、まっ先にトプカピ宮殿の古伊万里のコレクションを見るのだった。