賀曽利隆の観文研時代[28]

全3巻の『世界の食文化』

 日本観光文化研究所(観文研)の企画・編集による全3巻の『世界の食文化』(柴田書店)が出版されたのは1981年のことだ。

全3巻の『世界の食文化』(柴田書店刊)

 第1巻目は『粒食文化と芋飯文化』で「東アジア・南アジア編」。

 第2巻目は『粉粥餅文化とキャッサバ文化』で「アフリカ・南米編」。

 第3巻目は『粉食文化と肉食文化』で「ユーラシア・カナダ北極圏編」。

 そのうちカソリは第2巻目の「アフリカ編」を書かせてもらった。

 サハラ砂漠の遊牧民、サバンナと熱帯雨林の農耕民の食生活を描いたものだ。

 この全3巻の『世界の食文化』は宮本常一先生が監修して下さった。先生は冒頭で「監修のことば」として、次のように書かれている。

 近頃食べものや料理について書いた書物はすこぶる多い。豊かになった食べものを美しく飾って味よく食べる時代になり、料理の先生も雲のごとくあらわれ、テレビでも料理の番組がかなりの比重を占めるようになった。まことに結構な世の中であるとしみじみ思え、食いもののとぼしかった時期に旅をして食べものへの関心をもった私などが出る幕ではなくなったという感も深くする。

 しかし、元来その土地で、一般民衆が日々どのようなものを食べて生活を営んでいただろうかは、今一度、省みてよいことである。それには一般民衆がどのように食糧を生産したのか、またそのことにいかに工夫し、努力してきたかという問題から考えてみる必要がある。

 たとえば、日本人は昔から米ばかり食べてきたように思っている人が多いけれども、そうではなくて、それぞれの土地にできたものを食べることが多く、むしろ雑食であったといっていい。と同時に主食とか副食とかの区別すらなかったような食生活も見られた。

 私は昭和14年頃から全国を歩きまわる旅を始めたのであるが、当時をふりかえってみて、日常に米を食べていないところが多かった。

 南の方から順次思い出してみると、奄美大島のあたりでは、どこに行っても焼酎ばかり飲まされた。酒の肴として出されるのは味噌豚で、厚く切った豚肉を味噌に漬けたものだった。これで焼酎を飲むと、それだけで腹がふくれた。

 焼酎は客として迎えられた時に出されたが、それ以外の時には、薩摩芋と麦とちょうど半々ぐらいの飯を食べていた。奄美大島でも喜界島でも屋久島でも、米の飯を食べたという記憶はない。

 たとえば屋久島では、薩摩芋を切って麦の上にのせて炊いた。そして炊けたら芋と麦を混ぜて食べるのだ。これは冷めると、とても食べられたものではなかったが、温かい時には大変おいしいものだった。とくに鰹の煮汁、鰹と野草を煮ただけの汁なのだが、これを飲みながら食べると、醍醐味があった。

 本土に渡った大隅半島では薩摩芋が主食で、それに塩鰯がついて出た。保存のために塩をした鰯を焼き、それをかじりながら芋を食べるのだ。ただそれだけのことだったが、両方の味がうまく調和してとてもおいしかった。

 大隅半島から熊本県の球磨地方、宮崎県の米良・椎葉地方にかけては今でも猪が多く、年間3000頭も獲れるそうだが、昭和10年代には猪肉が主食だったところもある。米良の宿に泊った時、猪肉の皮つき肉だけで飯が出ない。皮つきの肉は腹がふくれるので、2皿も食べるとそれが主食になった。もっとも、身(肉)だけだと、飯が出た。飯は稗と麦の混ざったもので、肉がなかったらそれが主食だった。

 雑炊もよく食べた。大隅半島では大根の葉っぱを干してこまかく刻み、味噌と麦を炊き合わせた雑炊を食べた。雑炊とか粥というと米の入っているものを連想することが多いが、米の食べられる土地はよい方で、麦粥や麦飯しか食べられぬところが多かった。そして粥だけたべたのではすぐに腹が減るので、粥の中に何かを入れた。土地によって混ぜるものは違うが、団子、大豆、空豆、薩摩芋、大根などが多かった。

 四国に行って、高知県の梼原(ゆすはら)の農家に泊めてもらった時、里芋が出された。里芋を大きな鍋でゆで、それを串刺しにして囲炉裏に立てる。こんがりと焼けてくると、味噌を塗ってもう少し焼き、こげてきた時に食べる。また里芋は、ゆでたり焼いたりして食べるだけでなく、練りつぶして餅にして食べることも多かった。

 このようにして、里芋を多く食べるところは四国から中部地方の山地にかけて広く分布し、重要な生産物の一つであったことがよくわかる。

 中国地方の岩見や出雲の山地にある集落にはほとんど水田のないところがあり、そこでは申し合わせたように麦飯を食べさせられた。それがまだ温かいといいが、冷たいと食べにくい。稗飯も同じで、冷めたものは喉を通らない。そこで湯茶をかける。中国山地などでは、ワカメを火であぶって粉々にして、それと茶を麦飯にかけて食べている。こうすると、麦飯もけっこう食べられる。

 広島県の山地では、麦と大根を混ぜて炊いた飯を一番多く食べていた。大根を干して水分をかなり抜いたものを刻んで麦に混ぜた大根飯である。これはあまりうまいものではなかったが、味噌をおかずにして食べると結構、食べられた。

 その時から大根に興味を持って調べてみたら、富山県から秋田県にかけての一帯では、戦前の焼畑作物の中で一番大きな比重を占めていたのが大根だった。大根が重要な主食物であったというところが、かなり広範囲にわたって、戦前までは見られたのである。

 少し変わったところでは、能登半島では鱈飯というのを食べた。鱈の頭と尻尾をはね、大きな鍋で煮て骨をはずしたものである。このあたりでは鱈の獲れる時期になるとそれを主食にした。

 中部地方以北の山深い村では、栃の実を貯えておいて、これを割って身をとり、灰汁でそれを煮てアクを抜き、それを搗いて餅にして食べるところが多かった。越前穴馬の村では、娘が嫁に行くときに財産の一つとして栃の木を与えた。毎年、土地の実の落ちる頃には娘が帰ってきて、それを拾って俵に詰めて持って帰ったという話を聞いた。

 栃に限らず、ドングリやワラビ根なども古くからの食べものであったと思われる。それはおそらく自然採集時代ーすなわち縄文文化の時代からの食べものとして利用されたものであり注目される。

 こうして昭和14、15年頃の旅先での日常の食事を思い出してみると、もとよりそこは僻地や山村などではあったが、米以外のものを食べていた例がほとんどだった。全国隅々まで米がゆきわたり、日本人全体が米を食べられるようになったのは、太平洋戦争中に食料の統制が行われ、配給米制度が確立された以降のことではないかと思われる。少なくとも、山間の村々などではそうであった。

 そして古くから米を食べていた土地でも、主食物というのは米だけではなくて、いくつもあった。しかもそれを今日のように貯蔵して按分して食べたのではなく、芋があるときには芋を食べ、芋がなくなってくれば麦を食い、あるいは蕎麦を食うというふうにして、できるだけその時々のものを食べていたのが普通の食べ方だったようである。日本人は一面的に見れば平野部を中心に米を、また山地では粟や稗を主食にしてきたといえるが、全体的に見ればもともとは雑食の国民であった。

 そして日本人は定食の他に間食をとる生活をしてきた。何を食べるかは別にして、時なしによく食べている。たとえば農村では、朝食の前に起きてすぐ前夜の残り物を茶碗に一杯食べて、一働きして朝飯を食べ、夕飯のすんだあと夜業をして夜食を食べるというようなこともあった。各地の食習慣の報告を見ていると、このようにして1日に7回も食べることがあると報じた例もある。

 それは食べるものの多くがデンプンであり、脂肪、蛋白質のとり方が少なかった食事の質を物語るものだが、日本人ほど時なしに物を食べる民族はいないのではないか。

 そのことが今日、菓子屋、和・洋・中の種々の食堂、食料品店が氾濫し、いつでも喫茶店がにぎわっているという文化を生み出しているのではないか。

 雑食の飲食店が繁盛するのは新しい文化ではなく、われわれ日本人が過去にもってきた食べものに対する姿勢がそのまま受け継がれてきた姿なのである。
 ー後略ー

 宮本常一先生の書かれた「世界食文化」の序文は、心に沁み渡るものだった。