韓国食べ歩き紀行(7)
1986年
光州の野菜料理と牛肉料理
過ぎ去った韓国の旅の思い出にふけっている間に、特急「セマウル号」は京釜線と湖南線の分岐する大田(テージョン)を過ぎ、百済の都、プヨー近くの論山(ノンサン)を過ぎ、全羅北道(チョンラプクド)に入っていた。
車窓には広々とした湖南平野が広がっている。韓国第一の穀倉地帯の湖南平野は見渡す限りの水田地帯で、一面、黄色く色づいている。田の畔にはダイズが植えられている。
全羅北道の中心地、全州(チョンジュ)を過ぎ、韓国第三の大河、錦江(クムガン)を渡り、全羅南道(チョンラナムド)に入っていく。そして13時05分、終点の光州(クワンジュ)駅に到着した。
ソウルから光州に舞台を移して、さっそく私たちの食べ歩きが始まった。
列車内で昼食の弁当を食べていたので、軽い食事にしようと、中心街にとった宿の近くの食堂に入った。
食堂では木浦(モッポ)名産の梅酒が目に入り、それを1本、頼んだ。
梅酒を飲みながら、
「何か、食べるものを」
と、注文すると、まずはキムチが4種、出た。
つづいて枝豆が出た。
その次に豚肉とサトイモの煮物が出た。煮物はトウガラシがきいていてピリッと辛い。
それにつづいてモヤシとゼンマイ、ホウレンソウのナムルが出た。
野菜類をいったんゆでてから和えたり、炒めたりする料理を総称してスクチェ(熟菜)というが、日本の焼肉店でもおなじみのナムルはその代表格。家庭では毎日の献立に必ず登場する。先の3種のほかにダイコンやキュウリ、ナスなどのナムルもある。
野菜料理のあとは牛肉料理だ。最初にソゴギ(牛肉の佃煮)が出た。次にタンとレバーが生で出た。ともにコチュジャン(トウガラシ味噌)をつけて食べる。最後に刺身のユッフェが出た。ユッフェは上質の赤身の生肉を刻んで味つけしたもので、モンゴル系の遊牧民タタール人が朝鮮半島にもたらしたものだといわれている。
韓国では肉を煮る料理も発達しているし、干肉もよく食べられる。
焼肉、煮肉、干肉、生肉という肉料理のバリエーションの広さが、ユーラシア大陸の牧畜民の世界、言葉を替えれば、肉食文化圏と隣合った朝鮮半島の地理的条件を如実に物語っている。
それにひきかえ、朝鮮半島とは海で隔てられた日本では、馬刺などの例はあるが、生肉を食べる習慣は根づいていない。焼肉にしたところで、焼肉料理店があちこちにできたのは近年のこと。家庭での焼肉料理は、そうそうあるものではない。
もっとも、日本でも古くから肉を食べる習慣はあった。しかし、それはヤマドリやイノシシ、クマなど、狩猟によって得られる鳥獣の肉であって、ウシやヒツジなどの家畜の肉ではなかった。日本ではそのかわりに、焼魚、煮魚、干魚、生魚(刺身)と、魚料理が発達した。
夕食の韓定食
夕食は韓定食にした。ご飯、味噌汁、キムチのほかに、イシモチ、アサリ、ダイコンの入ったチゲ(鍋)、青菜とワラビ、ズイキのナムル、煮魚、トウガラシをきかせたサトイモの煮物、タコとシュンギクの酢物、カボチャの天ぷら、スケトウダラの腹わたの塩辛と、全部で7品のおかずが出た。
韓定食にはご飯、汁、キムチのほかに、5品とか7品の料理がつくが、この形は韓国の日常食にきわめて近いものだ。
韓国では李朝時代以来の伝統で、奇数を重んじる習慣があるが、その影響が食生活にも色濃く現れている。
ご飯を主食とする日常の膳をパンサン(飯床)といっているが、汁とキムチを除くおかずの数をチョップというふたつきの皿数で数え、3チョップ・パンサン、5チョップ・パンサン、7チョップ・パンサン、9チョップ・パンサンと呼んでいる。
3チョップ・パンサンと5チョップ・パンサンは庶民階級の食事、7チョップ・パンサンと9チョップ・パンサンは上流階級の食事とされ、宮廷料理になると12チョップ・パンサンであったという。
甕器づくりの村
光州には、観文研(日本観光文化研究所)所長の神崎さんが懇意にしている徐一相さんがいる。
日本で生まれ、日本で育ち、終戦とともに故国の韓国に帰った徐さんは60歳。日本語が達者だ。私たちは徐さんの車、現代(ヒュンダイ)のポニーに乗せてもらい、光州の周辺を案内してもらった。
まず最初は韓国でも最大級の竹細工市が立つタンヤンへ。大露天市で売られている笊や籠類を見てまわった。
次に、韓国のよく知られた古典、『春香伝』の舞台になった南原(ナムウォン)へ。
南原郊外の窯場を見学し、町中の市場を歩いたが、南原からは智異(チリ)山を間近に眺めた。
その次に、康津(カンジン)に行き、そこから朝鮮半島南岸の多島海に面したオンギ(甕器)をつくっている村を訪ねた。戸数30戸ほどの焼き物の村にも、近年の韓国人の生活の変化が大きく影響していた。
ほんの10年、20年前まではどの家でもキムチや味噌、醤油、塩辛などをオンギ(甕器)で漬けたり、仕込んだりしていた。それが急速にプラスチック容器に変わっていった。また、都市部では味噌、醤油、塩辛をつくる家が減った。そのため、かつてはこの村のほとんどすべての家がオンギづくりをしていたものが、今ではわずか3戸に減っていた。
遠浅の海には済州(チェジュ)島まで、オンギを運ぶ帆船が錨を降ろしていた。朽ちかけた帆船を見ていると、「これでほんとうに済州島まで行けるのだろうか…」と心配になるほど。時代の荒波にもまれ、まさに波間に消えようとしている焼き物の村を象徴しているかのような帆船だった。
最後に木浦(モッポ)に行った。木浦近くの霊岩(ヨンアム)では、日本のカラスミにそっくりなウーラン(魚卵)をつくっていた。スゴン(ボラ)の卵巣を原料にしたもので、韓国でも高価なものだという。またこのあたりでは、ウルメイワシからつくる魚醤油のウージャン(魚醤)を使っていた。
木浦は坂の多い町で、日本の長崎に似ている。旧市街と新市街に分れているが、新市街は韓国の経済成長に合わせるかのように、郊外へ、郊外へと急速に膨張していた。