信州伊那谷の馬肉・川魚・昆虫(3)
1986年
伊那人はハチノコやイナゴ、ザザムシ、カイコのさなぎなどの昆虫を好んで食べる。そのため伊那には、「かねまん」とか「かねせん」という昆虫食専門の店もある。
伊那人はそれらの昆虫の中でも、とくに「ハチノコ」が好きだ。
ハチといっても種類は決まっていて、ジバチとかスガリ、スガレと呼んでいるクロスズメバチだ。ジバチの名前通り、地中に巣をつくるハチである。
ジバチは体長15ミリほどの黒っぽいハチで、口でもって地中に穴を掘る。その中に木をかじってつくった粉を唾液で練り、円形の直径数十センチの巣をつくる。
巣は灰色で、4〜6層と層を成し、ひとつの層の厚さは3、4センチほどである。この巣の中に入っている幼虫やさなぎ、さらには羽化したばかりの若バチを食用にしている。
ハチノコはフライパンで乾煎りしてから塩をふったり、甘露煮にしたり、炊きたてのご飯にまぜてハチノコ飯にしたりする。ハチノコ飯といえば、昔からの客人をもてなすご馳走だ。酒の肴にも好まれる。ほんとうにハチノコの好きな人は生を食べる。
ハチノコとりは9月から10月にかけておこなわれる。とり方は次のようなものだ。
ジバチがいそうな野山で、カエルの肉を細かく刻み、それを真綿の先をよじって糸にしたものに結びつけ、地面に置いておく。ジバチはカエルの肉が好きなので、目ざとくみつけると、それをくわえて飛んでいく。カエルの肉をくくりつけた真綿の糸がヒラヒラと空中を舞い、それを目印にして巣まで追っていく。
巣をみつけると、硫黄と炭粉をまぜたエンショウ(煙硝)に火をつけ、巣の中に入れて入口をふさぐ。煙と異臭でいぶされたジバチは一時的に仮死状態に陥るので、その間に巣を掘り出すのだ。
伊那谷では大人も子供もハチノコとりをするので、ジバチが減っている。そこでハチノコとりの業者は近い所では山梨県、遠くでは東北各県や中国各県にまでハチノコとりに出かける。
名人級になると1日に8〜10個の巣を掘り、50キロ前後のハチノコをとる。現在(1986年)のハチノコの卸値はキロ3000円前後なので、10日ほどかけて岡山や広島あたりまで出かけても十分に採算がとれるという。
伊那谷では秋にはイナゴとりもする。穂の垂れた稲田で、イネをたっぷり食べたイナゴをとるのだ。各人が工夫をこらしてとっているが、専門のイナゴとりのいまはやりの方法はバイクを使うことだという。バイクの消音器を外し、パラパランとけたたましいエンジン音を響かせて稲田の畦道を走るのだ。バイクの後にパラシュートのような網をくくりつけ、それを引っ張りまわして走るのである。バイクの爆音に驚いて飛び上がったイナゴが網の中に入る仕掛けになっている。
天竜川の水が冷たさを増す11月になると、ザザムシとりが始まる。ザザムシというのは、トビゲラ類の幼虫を総称する伊那谷の言葉だ。
ザザムシは川石の裏についているが、そのような川石を蹴飛ばしながら、下流側に籠や網を置いてとる。ザザムシは体長数ミリと小さいだけに、とってからの砂利やゴミとの選別が大変だ。寒風が吹きすさぶ冬の間中、ザザムシとりはおこなわれる。
天竜川の川魚が減っているのと同様に、ザザムシも激減している。そのためザザムシの甘露煮は100グラム2000円と、高価なものになっている。ハチノコの1700円、イナゴの400円と比べると、はるかに高い。
伊那谷では、かつては養蚕が盛んにおこなわれていた。製糸も盛んにおこなわれていた。そのような伊那谷だから、まゆ玉を大釜で煮たてて生糸をとったあとに残る「カイコのさなぎ」をも食用にしている。養蚕が衰退したいまでも、カイコのさなぎはハチノコやザザムシ、イナゴと並んであたりまえに売られている。
ところで、養蚕や製糸が盛んだったのは何も伊那谷に限ったことではない。しかし他地方では、カイコのさなぎを養殖鯉のエサにすることはあっても、人間の食用にすることはない。
ザザムシも同様で、伊那谷を流れる天竜川に限らず、日本の他の川にも生息している。ところがそれを食用にしているのは伊那谷だけなのである。
伊那谷ではそのほか、ナラやナギの木の根元にいるゴトウムシやセミの幼虫、ヘビ、カエルなどを食用にしている。
そのため、「伊那人のげてもの食い」とか「伊那人のいかもの食い」といわれるのだが、その理由は「伊那谷は海から遠く、まわりが山ばかりで食料が不足しているから」とか「貧しいので何でも食べなくてはならなかったから」とか、もっともらしくいわれる。だが、ほんとうにそうなのだろうか。
伊那人を評して、よく、「理屈っぽい」といわれる。伊那人もそれを自認しているところがある。
「理屈ぽい」は言葉を替えれば、伊那人が理論的で、それだけ合理的であることになる。「伊那谷では風呂を焚いている婆さんが『世界』を読んでいる」
といった話を聞いたことがある。
どこにでもいるようなふつうのお婆さんが岩波書店の理論誌『世界』を読んでいるというのだ。
伊那谷からは「日本の頭脳」といわれるような優秀な人材が輩出している。
「東京の大学で、石ころをいくつか投げれば、必ずひとつは伊那谷出身の教授に当たる」
といった話も聞いた。
「(伊那谷で種々雑多な動物性タンパク源を食用にとり込むことができたのは)貧しいからではなく、伊那人の合理性、つまり、伊那人のすばらしい生活の知恵からきているのではないか」
と、伊那谷の馬肉、川魚、昆虫を食べ歩いてそう確信するのと同時に、伊那谷の高度に発達した食文化をそこに見る思いがした。