[1973年 – 1974年]
赤道アフリカ横断編 19 クンダラ[ギニア] → ダカール[セネガル]
国境の町クンダラ
ギニア北西端の町、クンダラまでやってきた。
ここからどうやってセネガルに入るかが、大問題だ。ギニアとセネガルは国交を断絶しているので、両国を結ぶ交通はまったく途絶えている。道はあるが、雨期の大雨のために、ひどい状態だという。
クンダラではギニア政府の役人にいろいろと世話になったが、彼らから得た情報ではPAIGCのトラックが1台、近日中にセネガルに行くかもしれないという。
PAIGCというのはポルトガルからの独立を目指すギニア・ビサウの解放戦線。ギニア、セネガルの両国内にキャンプ地があるので、それらを結ぶトラックだという。クンダラはまさに要衝の地でセネガル国境にもポルトガル領ギニア国境にも近い。ともに50キロほどの距離でしかない。
独立目前のギニア・ビサウ
ギニア政府の役人はクンダラの町外れにあるPAIGCのキャンプ地に連れていってくれた。そこでは迷彩色の戦闘服に身を固めたコマンドに紹介された。何ともラッキーなことに、セネガルに向かうトラック1台がまもなく出発するという。それに乗せてもらえることになった。
キャンプ地には不思議なほどの、明るい空気が流れていた。戦闘でいつ死ぬか、わからない兵士たちだったが、これが独立を目指す強さというものなのだろう。多数の人命を失いながらも、厳しい弾圧を打ち破ってここまでやってきた彼ら、戦士たち。
世界最後の植民地帝国のポルトガルはギニア・ビサウの激しい独立運動を力でもって制しようと、大量の軍隊を投入した。結局、それが命とりになり、ポルトガル本国の財政を著しく圧迫した。ポルトガルに革命をもたらし、ギニア・ビサウの独立を認めざるをえない状況に追い込まれていた。
戦車と衝突…
1974年8月31日、クンダラを出発。PAIGCのトラックはスウェーデンのボルボ製。中国、デンマーク、スイスなどからの支援物資や食糧、武器弾薬を満載にしてセネガルのカサマンス川河口の町、ジギンショールに向かった。
荷台のてっぺんに解放戦線の若い兵士たちと一緒に座る。
クンダラを出てまもなくのことだ。前方にタンクローリーが立ち往生している。水溜りにめり込み、動けない状態だった。ナンバープレートにはFFの文字。やはりPAIGCのものだった。
幸いなことに、ギニア・ビサウ国境に向かうギニア陸軍の大型戦車が通りがかった。この戦車がワイヤーを使ってタンクローリーを泥沼の中から引っ張り出してくれた。さて、出発しようかと動き出したとき、今度は我々の乗ったトラックが泥沼にめり込んでしまった。
すでに動き出していた戦車に向かってクラクションを鳴らすと、戦車は気がつき、ガシャガシャガシャガシャとキャタピラーの音を響かせ、戻ってきてくれた。
戦車がトラックの横をすり抜け、後に出ようとしたとき、トラックの全部と衝突してしまった。トラックはあまりにももろく、まるで紙細工のようにバリバリッと音をたて、ボンネット、フロントガラス、ドアなどがメチャクチャになった。
戦車はそんなトラックを泥沼の中から引きずり出した。そのあとで、トラックが動けるように、車輪にひっかかったカバーを引っ張りはがす。トラックのダメージは見た目ほどは大きくなく、走るのには支障がなかった。
国境通過!
ギニア側最後の集落で出国手続き。ここで何度も役立たせてもらった内務省発行の許可証を返した。
その村を出るとすぐに国境。ポツンと白いペンキで塗った小塔が立っていた。
ついにセネガルに入った!
ギニア側の道もひどかったが、セネガル側はそれ以上。湖のような水溜まりが連続する。交通量はまったくといっていいほどなかった。
最初に現れた小さな村で入国手続き。PAIGCの兵士たちと一緒だったせいか、フリーパス同然。ギニアとセネガルは国交を断絶しているが、両国はPAIGCに対しては最大限の支援をしている。
日が暮れ、夜になると、激しい雷雨に見舞われた。トラックの荷台の上で我々はずぶ濡れになり、落雷に震えた。
夜遅く、ガンビア国境近くのベリンガラに到着。そこにあるPAIGCのキャンプ地でひと晩、泊めてもらった。解放戦線の戦士たちと一緒に遅い夕食を食べたが、ギニアからセネガルへと、大きな難関を突破した喜びで、悪路のトラック旅の疲れなど一気に吹き飛ぶ満足感だった。
27歳の誕生日
翌朝、PAIGCのキャンプ地で朝食をご馳走になり、そのあとみなさんと別れた。トラックはカサマンス川河口のジギンショールまで行くが、ぼくはここから小国のガンビア経由でセネガルの首都ダカールに向かうつもりだった。
戦車に衝突し、痛々しい姿になったトラックだが、運転手はブーブー、ブーブーと盛大にクラクションを鳴らしてぼくを見送ってくれた。
セネガルからいったんガンビアに入る。
ガンビア川沿いのバセサンタスの町で入国手続きをし、ガンビア川沿いに南下。首都のバンジュールを目指す。トウモロコシや南京豆の畑が広がっている。
ガンビアはセネガル内に楔を打ち込んだかのような細長い国。国の中央をガンビア川が流れている。
バンジュールに着いたのは9月1日。
ここまで乗せてくれた乗り合いタクシーの運転手、まだ若いベジェコの家で泊めてもらった。この日はぼくの27歳の誕生日。20歳のときに「アフリカ一周」に旅立って以来、海外で迎える6度目の誕生日だった。
夕食をご馳走になったが、ベジェコには誕生日を祝福された。ガンビアは旧英領なので、うれしいことに英語が通じる。
ダカールに到着!
バンジュールはガンビア川河口の町。
翌日はベジェコに見送られ、フェリーで対岸に渡る。大西洋に流れ出る直前のガンビア川は川幅を広げ、海のような広さ。対岸までは30分以上かかった。
対岸に渡ると、再度セネガルに入り、カオラックからダカールへ。乗り合いタクシーに乗った。
1974年9月2日の夕刻、セネガルの首都ダカールに到着。オーストラリアからアフリカに渡って以来、すでに9ヶ月が過ぎていた。
アフリカ大陸最西端のベルデ岬の海岸に立ち、大西洋を眺めていると、その間の過ぎ去っていった数々の思い出が一気によみがえってきた。