[1973年 – 1974年]
サハラ砂漠縦断編 1 ダカール[セネガル] → サンルイ[セネガル]
大西洋の砂浜で考える
アフリカ大陸最西端、セネガルのダカールに到着した日は、大西洋の砂浜で野宿した。寄せては返す大西洋の波を見ていると、通り過ぎてきた西アフリカの国々がしきりと思い出された。そして「国境とは?」と考えてみるのだった。
西アフリカの小さな国々を旅していると、パスポートがなくても、ビザがなくても、自由に国境を行き来できればいいのにと何度、思ったことか。国境に近づき、国境を越えるたびに厳しく調べられたからだ。
まるでなにか、悪いことでもしたかのような容疑者扱いで調べられると、そのたびに心は重くなる。また調べられるのではないかと思うと、気持ちは萎縮し、おどおどしてしまう。
西アフリカの場合、国があまりにも細分化されすぎてしまった。それはアフリカを植民地にしたヨーロッパ諸国の罪にほかならない。
植民地を支配しやすいようにと、そこに住む人たちの生活や文化などはまったく無視し、地図上にかってに線を引いた国境線。その目に見えない国境線でアフリカはズタズタにされてしまった。民族もいたるところで分断された。
アフリカ諸国は独立後、それぞれの国の利益しか考えずに、隣国をののしったり、攻撃している。
日本という国は、そういう面では恵まれている。島国なので、国境というと、海のはるかかなたになる。国境にあこがれを感じても、さしせまった問題として、国境に脅威を感じることはない。
また、住んでいる民族も大半が日本人で、共通の日本語という言葉がある。たとえ方言の違いはあっても、日本語さえ話せば、日本中で何の不自由もなく意志を通じ合わせることができる。
ところが西アフリカ(東アフリカでもそうだが)ではそうはいかない。
ひとつの国の中にも、いろいろな民族が住み、いろいろな言葉が使われ、さらに国境線でズタズタに切り裂かれている。そのために起きる問題はあとを絶たない。
西アフリカのそんな現実を見ると、国というものがほんとうに必要なものなのだろうかと考えさせられてしまう。
世界中がひとつになったら、地球上から国境線が消えたら、それこそいうことはない。ところがそんな理想からはどんどんとかけ離れ、より細かく国は細分化されている。
民族の血というものが、あまりにも濃すぎるからだろうか。
ダカールでの出会い
翌日はダカールの町へ。
モーリタニア大使館でビザを申請し、そのあとはダカールをプラプラ歩いた。
町の公園では真野さん、村松さん、尾身さんの3人の日本人に出会った。真野さんはマグロ船の航海長、村松さんは機関長。尾身さんは通訳だ。
4人で尾身さんの泊まっているホテルに行き、ビールを飲みながらいろいろと話した。尾身さんは「漁船員のみなさんは飾り気がまったくないので、話していてもすごく気持ちいい」といっていた。
夕食をごちそうになり、ビールや日本酒、ジョニ黒を飲ませてもらった。漁船のコック長がおにぎりを届けてくれたが、それがまた、飛び切りのうまさだった。
何ヵ月もの長い航海のマグロ漁なだけに、操業中のトラブルは多いという。限られた人数の狭い世界。人間関係がとくに難しいという。操業中に解雇され、日本に帰るようなケースもあるという。真野さん、村松さんの乗った船の船長はひどい皮膚病にやられ、操業半ばで日本に帰ったとのことだが、病気の不安も大きい。
その夜は結局、夜通しの飲み会になり、尾身さんの部屋で全員、寝かせてもらった。
ダカール港の思い出
日本人のみなさんに別れを告げ、なつかしのダカール港へ。岸壁に立つと、胸がジーンとしてくる。
1968年から69年にかけての「アフリカ一周」では、モロッコのカサブランカ港で愛車のスズキTC250ともどもフランスの客船に乗り、ダカール港で下船した。
ほんとうは一番西のルートでサハラ砂漠を縦断し、今回とは逆のコースでモーリタニアからセネガルに入りたかったのだが、その自信がなく、断念したのだ。
あのときの「サハラ砂漠縦断」をできなかった悔しさと、ダカール港に降り立ち、「さー、これから西アフリカだ!」といった気持ちの高ぶりがまるで昨日のことのように蘇ってくるのだった。
1971年から72年にかけての「サハラ砂漠縦断」では、アルジェリアからモーリタニア経由でサハラ砂漠を縦断し、ダカールにやってきた。サハラ砂漠縦断のバイク、スズキ・ハスラーTS250をアルジェであずかってもらい、今回と同じようにヒッチハイクでサハラを南下したのだ。そのときは自分一人ではなく、フランス人旅行者のベルトランと一緒。ダカールには4日、滞在し、船でダカール港沖のゴレ島に渡った。
そんな思い出のシーンが次から次へとまぶたに浮かんだ。
古都サンルイ
モーリタニアの大使館でビザを発給してもらうと、ダカールを出発。北のサンルイに向かう。強烈な日差しのもと、ダカール市内からカオラックに通じる道を歩いていく。あまりの暑さに頭がくらくらしてくる。1時間以上歩き、郊外に出たところでヒッチハイクを開始。まずはティエスへの道との分岐点まで乗せてもっらた。
そこからサンルイへ。
北に向かうと風景はどんどん乾燥してくる。サハラ砂漠に近ずいているのがよくわかる。暑さは一段と厳しくなる。
南京豆の畑が目立つようになる。
何台かの車に乗せてもらい、夕方、ダカールから270キロのサンルイに到着。サンルイの町はセネガル川河口に浮かぶ小島、サンルイ島にある。
この町は1885年にフランス領西アフリカの首都になり、それ以降、西アフリカでは最大の都市になった。サンルイにはそのような古都の面影が濃く残っていた。この町はまた北のイスラム教と南のキリスト教の接点を強く感じさせた。
イスラム教のモスクからはコーランが流れ、キリスト教の教会からは賛美歌が聞こえてきた。町中の屋台で夕食を食べ、ダカール同様、大西洋の砂浜で野宿した。