[1973年 – 1974年]
赤道アフリカ横断編 17 コナクリ[ギニア] → コナクリ[ギニア]
大雨のコナクリを出発
1974年8月19日、ギニアの首都コナクリを出発。セネガルの首都ダカールを目指す。マモウ、ラベ、クンダラと通ってセネガルに入るつもりだったが、はたしてうまく国境を越えられるかどうか…。自信はなかったが、やるだけやってみるだけ。ダメだったらそのときはそのときのことだ。
ギニアではヒッチハイクをするつもりはなかった。
各地での検問は厳しく、フラフラ歩いていたら、捕まってしまいそうなピリピリ感が漂っていたからだ。おまけにビザは48時間のトランジトなので、それがみつかったらまずいという思いもあった。
雨期のコナクリ。何度も大雨が降る。空一面に張り付いたぶ厚い雨雲に押しつぶされそうになる。
乗り合いタクシーに乗る
コナクリのタクシー乗場からマモウ行きの乗り合いタクシーに乗った。距離は300キロほど。車はプジョーのワゴンタイプで、前に2人、真ん中に4人、後ろに3人と、ぎゅう詰め状態。
マモウまで料金は300シリー。1シリーは公定のレートだと13円なので、3900円にもなる。ところが闇のレートだと約1円なので、300円ほどでしかない。
日本の新聞に世界で最も物価の高いのは東京とコナクリだと出ていたが、確かに公定レートだとそうなのだろう。しかし闇レートで両替すれば、それほど高くはない。
コナクリからマモウの間では、何度か検問所を通過した。そのたびにパスポート、荷物を調べられた。48時間のトランジトビザが気がかりだったが、その件に関しては何もいわれなかった。
西アフリカの水ガメ
コナクリとマモウの中間のキンディアに到着。キンディアの周辺には世界的なボーキサイトの鉱床が確認されている。
乗り合いタクシーの乗客のうち、何人かはここで降りる。降りた人数分だけ客を乗せ、満員になったところで再びマモウを目指して走り出した。
乗り合いタクシーはギニア中央部の山地に入っていく。このギニア高地こそ、西アフリカの水ガメのようなところ。西アフリカの大河、ニジェール川、セネガル川、ガンビア川はすべてギニア高地を水源にしている。
雨期なので、よけいにギニア高地は青々としていた。
マモウの休日
マモウには夕方に着いた。
町の入口にある日本工営のキャンプ地で乗り合いタクシーを降りる。コナクリで紹介されてやってきた。
ここには2人の若い日本人社員がいて、大歓迎された。さっそく夕暮れ迫るマモウの町をすみずみまで案内してもらった。
60年前にギニアに入植したというレバノン人商人とも話したが、老人はぼくがカタコトのアラビア語で話したことをすごく喜んでくれた。
その夜は日本食の夕食をご馳走になったあと、2人の日本人社員と夜遅くまで話した。思いっきり日本語を話せて、胸がスーッとする思いだった。
ギニアはリベリア国境のニンバ山(1752m)とコートジボアール国境近くのシマンドゥ山(1340m)の高品位の鉄鉱石積み出しと国内の交通網整備を兼ね、新しい鉄道を計画中だった。日本工営はその鉄道建設の調査をしていた。
翌日は「遠足に行こう!」といってくれ、マイクロバスでフータジャロン山地のキンコンの滝まで連れていってくれた。
キンコンの滝はマモウからラベに行く途中のピタの近くにある。
平均高度が1000メートルを超えるフータジャロン山地(最高は1515m)には霧がかかり、ひんやりした空気が流れていた。ここはギニア高地の中でもその中心といえるようなところ。中国の援助で完成したダムと発電所を見学し、そして深く険しい峡谷に分け入り、岩壁から水が束になって流れ落ちるキンコンの滝を見た。激しく水しぶきが飛び散ってくる。滝の展望台の岩にはタンザニアのニエレレ大統領、エジプトのナセル大統領、コートジボアールのボワニ大統領、セネガルのサンゴール大統領がこの滝を見にきたことが記されていた。
マモウの宿舎に戻ると、前夜と同じように、日本食の夕食をご馳走になり、そのあとは夜が更けるまで2人の若い日本人社員と話した。
最高に楽しいマモウの休日だった。
ラベのトラック
マモウからはいまにも壊れそうな(実際、途中で何度も壊れ、そのたびに修理した)オンボロタクシーで、150キロ北のラベに向かった。途中のピタまでは前日通ったのと同じ道だ。
ラベには昼過ぎに着いた。ちょうど運よく、セネガル国境に近いクンダラまで行くトラックがあった。
そのトラックはすぐに出るという。荷台には15人ほどの乗客が乗っていた。クンダラまでは悪路がつづくとのことで、距離は300キロもないのだが、30時間以上はかかるという。
積荷がなかなか集まらないようで、すぐに出るといっていたトラックはなかなか出ない。そのうちに日が暮れ、夜になる。出発は朝になるとのことで、その夜はトラックの荷台でゴロ寝した。
夜が明ける。バナナや焼きトウモロコシ、野菜や肉、日用雑貨などが売られている市場に人が集まってくる。乗り合いタクシーやバス、トラックの出る広場はにぎわいをみせはじめる。すっかり明るくなっても、まだトラックは出ない…。
トラックが動き出したのは昼近くになってからのことだった。
ラベを出られない…
クンダラまで行くトラックがラベの町をまだ出ないうちに、警官に停められた。
乗客と積荷が調べられたあと、ぼくだけがトラックから降ろされた。トラックは走り去っていく。クンダラがいっぺんに遠くなる。
警察に連れていかれた。机と椅子がポツンとある部屋で、パスポートを調べられ、荷物を調べられた。そのあとは、
「どこから来た?」
「何しに来た?」
「ここからどこへ行く?」
と、矢継ぎ早にフランス語で質問される。
一応の調べが終ると、警官はぼくのパスポートをポケットに入れ、
「しばらく預かっておく」
と言い残して部屋を出ていった。
長い時間、粗末な木の椅子に座っている。もうやりきれなくなってくる。クンダラはいよいよ遠くなっていった。
コナクリへの強制送還
2時間ほど待たされただろうか、警官はやってくるなり、ぼくを別な建物に連れていく。そこでは何を聞かれるということもなく、ただ待たされるだけだった。何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。時間だけがどんどんと過ぎていき、とうとう夜になってしまった。
その夜は建物内のベンチでゴロ寝。何も食べていないので腹が減った…。
翌日、それも昼近くになって、やっと迎えの人が来た。連れていかれたのは知事の公舎だった。これから起きるであろうことを瞬間的に予感し、暗い気持ちになった。
まだ若い30代ぐらいの知事がやってきた。英語を話せる通訳も一緒だ。
通訳が、
「キミはクンダラに行くことはできない。政府の車でコナクリに送り返されることになった」
と、きわめて事務的に告げた。
セネガル国境の町クンダラは、同時にポルトガル領ギニア国境の町でもある。国境を越えて攻めてきたポルトガル軍とポ領ギニアの解放戦線を支援するギニア軍との間で大規模な戦闘が起こり、それ以降、外国人の立ち入りは禁止されているという。
コナクリの内務省
もうじたばたしても始まらない。ぼくはまな板の上の鯉同然だ。
その日の夕方、政府の車でコナクリに送り返された。
翌日の昼過ぎにコナクリに着いたが、何と内務省内の秘密警察本部だった。
「まずいことになった…」
土曜日の午後で仕事が終っているのにもかかわらず、
「今、長官の家に電話した。長官はすぐに来るので待っていなさい」
といわれた。
絶望的な気分になる。これでは重要な容疑者扱いだ。
「ほんとうにまずいことになった…」
長官がやってくるまでの耐え難いほどの重苦しい時間。最悪の場合は留置されるだろう。冷え冷えとした留置場の鉄格子が目にちらついた。