[1973年 – 1974年]
赤道アフリカ横断編 16 フリータウン[シエラレオネ] → コナクリ[ギニア]
熱帯モンスーンの町
シエラレオネの首都フリータウンではすさまじい雨に降られた。休みなく降りつづけるすごい雨だった。
この一帯の雨期に降る雨の量はものすごい。
フリータウンの月別の降水量は次のようなもの。
1月 10ミリ
2月 5ミリ
3月 30ミリ
4月 79ミリ
と、ここまではたいしたことがない。
ところが5月以降の雨期になると、桁外れの雨量になる。
5月 241ミリ
6月 363ミリ
7月 742ミリ
8月 927ミリ
9月 566ミリ
10月 361ミリ
11月 140ミリ
12月になると雨期は終り、30ミリとぐっと少なくなる。
フリータウンの年平均の降水量は3495ミリ。東京の2倍以上の雨が降る。気候帯でいえば、熱帯モンスーン気候になる。
「えい、ヤー!」
フリータウンの町を歩いていて腹だたしくなるのは子供たちだ。
ぼくの姿を見ると、
「チャイニーズ、チャイニーズ」
と、はやしたてる。
そのあときまって、
「エイ、ヤー!」
と、叫びながら身構える。
アフリカで大人気の香港映画の影響だ。
信じられないような幸運
フリータウンを離れるときは緊張した。いよいよ難関のギニアだ。
モンロビアのギニア大使館で取った48時間のトランジットビザを持っているとはいえ、ほんとうに入れるかどうか、おおいに不安だった。
フリータウンの郊外からはベンツの乗用車に乗せてもらった。80キロほど行くと、ボーに通じる道とギニアのコナクリに通じる道との分岐点、マシアカの町に着く。
ここでは信じられないような幸運な目にあう。
ベンツの前を走っているのは赤地に白文字のナンバープレートをつけたニッサン車。
「あの車はコナクリに行く車だ。頼んであげよう」
そういってベンツの運転手はクラクションを鳴らしてニッサン車を停めた。
「この人をコナクリまで乗せていってもらえないだろうか」
その車には2人が乗っていた。何とも幸運なことに、2人はコナクリの日本企業で働いていた。2人のおかげでコナクリまで乗せてもらえることになった。
ギニアに入った!
ポートロコの手前でマランバ鉄山と積出港のペペルを結ぶ鉄路を越える。
熱帯雨林からサバンナへ、風景はずいぶんと変る。空を突くような大木はもう見られない。
水量の豊かなスカシーズ川をフェリーで渡った。
カンビアの町を過ぎると、もうギニアは目の前だ。
コレンテ川を手動のフェリーで渡る。鉄製のワイヤーを木の道具を使って引っ張る。
激しく降りつづく雨をついて走り、国境に到着。シエラレオネ側の出国手続を終え、ギニア側に入った。
ギニア側のイミグレーションではトランジトビザのことは何もいわれず、税関のチェックも簡単に終り、ついに鎖国同然のギニアに入った。
首都コナクリへ
ギニアに入ったとはいうものの、国境周辺の道はひどいもので、雨でぬかった上り坂を登れない。そこで村人たちを呼び集め、20人ぐらいの人たちに車の後ろを押してもらった。
超悪路をなんとか走り抜け、舗装路に出たときはほっとした。
統制経済のせいでモノが極端に不足しているギニアだけに、すれ違う車はオンボロ車ばかりだった。
フリータウンから350キロ、ギニアの首都コナクリに着いたのは夜になってからのことだった。
日本工営の日本人社員
2人が働いている日本企業というのは日本工営で、ニンバ鉄山の鉄鉱石積み出し用鉄道建設の調査をしていた。すでに夜も遅い時間だったが、2人は「同じ日本人なのだから」といって、ぼくを日本人社員の家に連れていってくれた。
ほんとうにありがたかったのだが、大歓迎され、ひと晩泊めてもらった。シャワーを浴び、遅い夕食をご馳走になり、そのあとはウィスキーを飲みながら話した。
ギニアへの入国はきわめて難しいので、
「よく入れましたねえ」
と、まっさきにいわれた。
さらにギニアからセネガルに行く計画だというと、両国の関係を考えるとほとんど不可能だという。
セネガルのサンゴール大統領がギニアのセク・トーレ大統領の悪口をいったのが原因で、両国は国交を断絶しているからだという。
前途多難だ…。