[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 5 ルサカ[ザンビア] → コルウェジ[ザイール]
世界最大級の産銅地帯
ブルンスさん一家に別れを告げ、産銅地帯のコパーベルトに向かう。ルサカから最初に乗せてもらったのは、50キロほど北のカブエまで行くオランダ人の運転する車だった。カブエは旧名ブロークンヒル。鉱山町で鉛や亜鉛の鉱山がある。
カブエからはほとんど待たずに70キロ北のカピリンポシへ。ここでタンザニアのダルエスサラームに通じる道とコパーベルトの町々に通じる道とが分岐する。
タンザン鉄道もカピリンポシが起点になっている。ローデシア国境からリビングストン、ルサカと通る在来線とここで合流し、さらにコパーベルトのンドラ、キトウェからザイールのルブンバシに通じる鉄道もここで分岐している。カピリンポシはザンビアの道路、鉄道の要衝の地だ。
コパーベルトはカピリンポシからさらに北に100キロほど行ったところから始まる。大きな銅鉱山がいくつもつづく。その名の通り、銅鉱石の鉱脈がザンビアとザイールの国境をまたぎ、200キロあまりの長さで延びている。
1972年度の世界の銅鉱石の産出量を見ると、ザンビアはアメリカ、ソ連、チリについで第4位、ザイールは第6位だ。両国ともその大半はコパーベルトで産出されたもので、コパーベルトは世界最大級の産銅地帯といっていい。ザンビア側の開発はかなり進んでいるが、ザイール側はまだこれからといった感がある。
「ドクター・ヤマザキ」
カピリンポシからキトウェへ。ここはザンビアのコパーベルトではンドラと並ぶ中心都市。ンドラには銅山はないが、キトウェにはンカナという大銅山が隣り合っている。ここでは日本人医師の山崎先生を訪ねた。先生の病院はキトウェの中心街にあり、たいへんなにぎわいだった。先生をひと目見たい、先生と握手したいというような人たちも多く、山崎先生の人気はきわめて高い。息子に「ヤマザキ」と名付けた人も何人もいるという。
1968年の「アフリカ大陸縦断」のときはマラウィからザンビアに入ったが、国境の役人に「ドクター・ヤマザキを知っているか」と聞かれて驚いた。その当時、ザンビアには日本人は1人もいないと聞いていたからだ。国境の役人にドクター・ヤマザキはキトウェにいるから訪ねてみたらいいといわれ、山崎先生を訪ねたのだった。山崎先生は日本に6年ぶりに帰国する前日で、大忙しだったのにもかかわらず、快く迎えてくれた。
それから5年。ザンビアには日本大使館ができ、日本企業が進出し、海外青年協力隊の隊員たちも各地で活躍していた。在留邦人は100人を超えた。変われば変わるものだ。その間の日本の高度経済成長とそれにともなう海外への猛烈な進出ぶりを目の当たり見る思いがした。
その夜は山崎先生のお宅で泊めていただいた。奥様には夕食に日本料理をご馳走になった。ご飯と味噌汁がうまい。具だくさんのおでんもうまかった。もう大感動! 夕食後、海外青年協力隊のみなさんがやってきた。山崎先生夫妻、海外青年協力隊のみなさんと夜遅くまでおおいに語り合った。
ヒッチハイクの大きな魅力
翌日は山崎先生夫妻に別れを告げ、キトウェからはザイール国境に向かった。ザンビアのコパーベルトは交通量も多く、楽なヒッチハイクだった。最初に乗せてもらった車でチンゴラまで行く。チンゴラの町に隣り合ってンチャンガの大銅山がある。
チンゴラの町中からザンビア・ザイール国境を目指して歩いた。その道はてっきり国境に通じている道だとばかり思っていた。ンチャンガの露天掘り鉱山のわきを歩いていると、通り過ぎていった車が戻ってきてくれた。運転しているのは白人だ。
「この道は鉱山の道だよ」
と、彼は教えてくれた。それだけではなく、ぼくが「国境に向かいたい」というと、わざわざ国境に通じる道まで乗せていってくれたのだ。彼はスコットランド人の鉱山技師で、すでに海外での生活は20年を超えるという。コロンビア、パキスタン、インドネシアなどが長く滞在した国。彼の息子がつい先日、ヨーロッパからアフリカ縦断のヒッチハイクの末、無事に家に帰り着いたということで、息子の無事な帰国を心から喜んでいた。
国境に通じる道に出ると、そこからは国境近くのチリワボンブウェ(旧バンクロフト)まで、ザンビア人女性の車に乗せてもらった。彼女は1963年に政府が中国に派遣したミッションの一員で、ザンビアでは中国を訪ねた最初の女性なのだという。世界を股に掛けるスコットランド人の鉱山技師といい、ザンビアで初めて中国に行った女性といい、いろいろな人たちに出会えるのがヒッチハイクの大きな魅力だ。
国境通過
どこの国でもそうだが、国境に近づくと、交通量はガクッと減る。チリワボンブウェから国境までは16キロあるが、その間は歩くつもりにしていた。30分ほど歩いたころだろうか、空のタクシーが通りがかり、なんともラッキーなことに運転手はただで乗せてくれるという。2時間以上も得をした。
国境に着くと、ザイール人たちが20人以上並び、ザンビアからザイールに向かう旅行者を相手に両替をしていた。ザイールの通貨はザイールだが、ザンビアの通貨クワチャの方が強いようだった。残っていたザンビアのコイン、21ングウェを11マクタで替えてもらった。100マクタが1ザイールになる。1マクタだとリクタになる。
露天の両替商のオバチャンには、ケニアのシリングも替えてもらえないかと頼んだが、断られた。ザンビア側のイミグレーションで出国手続きをし、国境を通過する。すぐにザイール側のイミグレーション。そこでザイールの入国手続きをする。ザンビアの出国手続き、ザイールの入国手続きともに簡単なものだった。
ザイールの入国手続きを終えたところで、国境の役人に30ケニアシリングを両替してもらった。レートはひどく悪く、1ザイール20マクタだったが、替えてもらえただけでラッキーといっていい。
こうしてザンビアからザイールに入った。ザイールのお金も手に入れたし、「さー、がんばってザイールでのヒッチハイクをしよう! ルブンバシを目指そう!」という気持ちになった。ルブンバシはザイール東部のシャバ州の中心地だ。
シャバ州の中心地、ルブンバシに到着
ザンビアからザイールにかけてのこの一帯には、巨大なあり塚が点々とある。アフリカのほかの地方でもあり塚をたくさん見てきたが、コパーベルトのあり塚ほど大きなものはなかった。単に背が高いばかりでなく、幅もある。大きなものになると、高さも幅も人間2人分以上はあった。
国境近くには日本が開発中のムソシ鉱山がある。きっとムソシ鉱山の人たちなのだろう、日本人とおぼしき人たちが運転する車が何台も通り過ぎていった。それはすべて、場違いなほどの新しい車ばかりだった。日本はすごい国だなあと思った。ザイールにとってははるか極東のかなたの島国に過ぎない日本が、膨大な資金と最新の技術でもってこの地の銅山を開発しようというのだから。
国境からシャバ州(旧カタンガ州)の中心地、ルブンバシ(旧エリザベスビル)までは約100キロ。その間は小型トラックの荷台に乗せてもらった。途中で検問が2度、3度とあり、そのたびにパスポートを調べられた。
ルブンバシに到着し、雑然とした町を歩いた。ルブンバシの町並みを見ていると、ぼくの予想に反してとでもいおうか、寂れかかったような印象を受けた。ルブンバシといえば、ザイールではキンシャサ、キサンガニと並ぶ三大都市。さらにはザイールの鉱物資源を独占するかのようなシャバ州の中心都市ではないか。それだけにすごく意外だった。
独立以前のベルギー領の時代、エリザベスビルは白人好みの整然とした、きれいな町だったという。ここがコンゴの鉱物資源を独占したベルギー資本のユニオン・ミニエール社の本拠地。銅、コバルト、ウラン…と、ユニオン・ミニエール社が得た利益は莫大なものだった。とくにコバルトは世界の生産高の半分以上を占め、ユニオン・ミニエール社の一存で自由自在のコバルト相場をコントロールできたほど。また、広島、長崎に投下された原子爆弾の原料のウランもユニオン・ミニエール社の産出したものだ。
「コンゴ動乱」の地
旧カタンガ州の豊かな鉱物資源は、コンゴの人たちを豊かにするのではなく、反対に不幸のどん底に陥れる結果となった。この地の豊富な鉱物資源があったばっかりに、コンゴ独立(1960年)後の、底なし沼のあの「コンゴ動乱」をもたらしてしまった。
カタンガ州独立の問題が終結したあとも、コンゴ情勢はすこしもよくならなかった。モブツが1965年のクーデターで政権を握るまで、コンゴは激しく揺れ動いた。その間にどれだけ多くの人命が失われたことか…。その後、1967年にユニオン・ミニエール社は国に接収された。
「コンゴ動乱」の原因や推移は複雑だ。だがコンゴの膨大な資源に目がくらみ、コンゴの人々の幸せではなく、たえず自社の利益を追いかけた白人たちが、「コンゴ動乱」の原因のひとつになったことだけは間違いない。
ルブンバシが見た目には汚らしい町になったことは、もしかしたらザイールの人たちにとっては喜ばしいことなのかもしれない。彼らにとってはベルギー人やギリシャ人などのヨーロッパ人やパキスタン人などのアジア人が住むきれいな町など、必要ではなかったのだ。ザイールではレオポルドビルがキンシャサに、スタンレービルがキサンガニに、そしてエリザベスビルがルブンバシに…というように、植民地時代の名前を徹底的に変えていったが、その気持ちがよくわかるような気がした。
検問、検問、検問…
ルブンバシから125キロ北のリカシへ。その間には何ヵ所にも検問所があり、そのたびにパスポートを調べられ、荷物を調べられることもあった。何日か前にポルトガル人、ギリシャ人、パキスタン人のザイールからの追放を決めた大統領の演説があってからというもの、検問所での検問はいっそう厳しくなったという。リカシの町に着いても、警察で調べられた。こう頻繁に調べられると、気分はブルーになり、心も重たくなってくる。
さらに悪いことに、ザイールでは英語はほとんど通じない。公用語はフランス語で、ぼくのフランス語といったらカタコト語。スワヒリ語の通用するエリアなので、カタコトのフランス語にカタコトのスワヒリ語を織りまぜて受け答えしたが、あまりにも連続する検問なので、それにも疲れはててしまった。
しかし、リカシの警察ではぼくが怪しいものでないことがわかると、快くひと晩、泊めてもらった。陽気な警官たちに食事をご馳走になったり、バーでビールを飲ませてもらったりしたので、ブルーな気分もすこしはほぐれた。
将来の大銅山
翌日はリカシから200キロ北のコルウェジに向かった。リカシの周辺にも銅やコバルトの鉱山がいくつもある。町の中心から歩き始めたのだが、道を間違えてしまった。それも10キロ以上歩き、鉱山のあるカンボベに着いてから道を間違えたことに気づいた。もう腹だたしいやら悔しいやら…。リカシに戻ったが、帰路ではあまり歩かずに車に乗せてもらえた。
リカシの町の中心からもう一度、コルウェジを目指して歩き始める。今度は間違えないようにと、慎重に何人もの人に聞いて歩いた。なんのことはない、交差点で右に曲がるところをぼくは真っ直ぐ行ってしまったのだ。道路標識が1本あれば間違えなかったのに。
リカシの町外れからフングルメまでトラックに乗せてもらった。その間は70キロほど。フングルメに着くと、露天の小さな市場で2マクタ(約12円)でバナナを6本買い、それを昼食にした。市場でフングルメにはジャポネ(日本人)がいるという話を聞いた。それもイネ(4人)だという。鉱山関係の人たちに違いないと思った。
市場にいた子供たちが、ジャポネのところに連れていってくれた。そこはSMTFフングルメ銅山のキャンプ地で、近い将来、フングルメ周辺は世界でも最大級の露天堀り銅山になるという。キャンプ地には片桐さん、伊藤さん、相良さんの3人の日本人がいた。3人は鉱脈の探査をしていた。
SMTFは日米英共同出資の会社で、鉱山が予定通り軌道に乗れば、フングルメは5000人を超える一大鉱山町になるという。突然、キャンプ地を訪ねたのにもかかわらず、片桐さんらにはすっかりお世話になった。
午後はボーリングの現場を案内してもらった。雨が降りだすといったあいにくの天気だったが、天気にかかわらずボーリングは休みなくつづけるという。小高い丘の上に立つと、霞んで見えるコンゴ盆地の一角がまるで大洋のように茫洋と広がっていた。
ボーリングの現場からキャンプ地に戻る途中ではテンケ駅に寄ってくれた。ルブンバシからの鉄道はテンケで分かれ、1本はカミナ、カナンカ(旧ルルアバーグ)を通って、カサイ川の川港、イレボ(旧ポールフランキー)に至る。そこからはカサイ川からコンゴ川本流の船で首都のキンシャサにつながっている。もう1本は国境のディロロを通ってアンゴラに入り、大西洋岸の港町、ロビトに至るもの。テンケで分岐する2本の鉄道はザイールにとってはともにきわめて重要なものだ。
その夜は片桐さんらのキャンプ地に泊めてもらった。おいしい夕食をご馳走になり、そのあとは片桐さん、伊藤さん、相良さんらとビールを飲みながら夜遅くまで話した。
翌日は銅鉱石が露出している一帯を案内してもらった。そこではコバルトフラワーという華麗な花が咲き、緑ががった純度の高い銅鉱石が地表に露出している。片桐さんによると、地質や岩石に興味のある人だったら、よだれを流すような光景だという。
フングルメは銅だけでなく、コバルトの埋蔵量も大変なもの。ここからコバルトが生産されるようになると、世界のコバルト価格は暴落してしまうほどの量だという。
世界の大河コンゴ川
片桐さんらSMTFのみなさんにお礼をいってフングルメを離れる。そしてコルウェジへ。その途中では、コンゴ川上流のルアラバ川をせき止めてできた人造湖を渡る。このあたりから南にかけての一帯がコンゴ川の源流地帯になる。すぐ南のザンビア、アンゴラにまたがる国境周辺の丘陵地帯がインド洋に流れ出るザンベジ川との分水嶺になっている。コンゴ川は全長4370キロ。流域面積はじつに369万平方キロで日本の国土が10あまりもスッポリと入ってしまう。コンゴ川はアマゾン川に次ぐ世界第2の大河だ。
ナイル川、コンゴ川、ニジェール川がアフリカの三大河川。長さでいうと全長6690キロのナイル川は世界最長の河川だが、流域面積や水量ではコンゴ川の方が圧倒的に大きい。ニジェール川は全長4180キロ。
さて、ルアラバ川だが、赤道を越えてキサンガニあたりまで北流し、コンゴ川となって大きく湾曲し、リサラ、ンバンダカと通って再び赤道をまたいで南西に流れ、キンシャサとブラザビル間のまるで海のように広いスタンレープールに達する。その後、渓谷に入り、下流のザイール最大の港、マタディを通って大西洋に流れ出る。
コンゴ川の支流には何本もの大河川があるが、主なものは左岸側にロマニ川、ルロンガ川、イケレンベ川、ルキ川、カサイ川、クワ川、右岸側にはルブア川、ルクガ川、アルウィミ川、イティンビリ川、モンガラ川、ウバンギ川、サンガ川などがある。
コンゴ川の大きな特徴は赤道をはさんで南から北に流れ、ふたたび北から南に流れるので、下流では雨期、乾期の別なく水量が一定していることだ。それにしてもザイールはすごい国。なにがすごいかというと、アンゴラ、ザンビア、タンザニア、中央アフリカ、コンゴから流れてくる川はあるにしても、コンゴ川という世界の大河の源流から河口までを1国に収めてしまう。
アフリカ大陸は全体的に見ると、どこも水不足に悩まされている。それだけにコンゴ川のとてつもなく大きな水資源はきっと将来、ザイールの一番の資源になるに違いない。
コルウェジまではトラックの荷台に乗せてもらった。あいかわらず警察や軍の検問所がつづく。そのたびにトラックは停められ、取り調べを受けた。運転手は彼らのご機嫌をとるために、そのたびにタバコをあげていた。ひどい話だが、積み荷のビールを巻き上げられることもあった。ぼくはといえば、そのたびにパスポートを調べられた。これがなんともわずらわしい。
コルウェジに到着。ザンビアからずっとつづいたコパーベルトの端で、ここを過ぎると、もう銅山はない。