[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 4 ルサカ[ザンビア] → ルサカ[ザンビア]

ドイツ人のブルンスさんの家で

 ザンビアの首都ルサカでひと晩、泊めてもらったドイツ人のブルンスさんの家には、同じドイツ人の若いバッチマンさん夫妻が来ていた。1歳になったばかりのカオリナちゃんというかわいらしい女の子も一緒だった。バッチマンさんはザンベジ川の人造湖カリバ湖周辺での農業指導をしているとのことで、「見にきませんか」と誘われ、連れていってもらうことにした。

 その夜はブルンスさん一家、バッチマンさん一家と一緒の夕食をいただいた。夕食後はブルンスさんのインド滞在中の写真を見せてもらい、インドについての話を聞かせてもらった。寝る前にはザンビアの英字紙を見せてもらった。大きな扱いでサヘル地帯(サハラ砂漠の南側)とエチオピアからケニア、タンザニアへとつづく一帯の大旱魃が報じられていた。同じ紙面にはオーストラリアの記録的な洪水のニュースがのっていた。とくにブリスベーン川の氾濫によるブリスベーンの町の被害が大きいとのことで、ブリスベーンでは何人もの人たちにお世話になったので心配だった。

ルサカを出発

 翌朝、トーストと目玉焼きの朝食をいただいたあと、バッチマンさん一家の車でカリバ湖畔に向かった。車はドイツ車ではなくトヨタ。バッチマンさんは「トヨタはいい!」と絶賛していた。

 ルサカから40キロほど南に行くと、ザンベジ川の支流、カフエ川にかかる橋を渡る。橋の上からは、水面上に時々、プカップカッと頭を出すカバを見た。数頭のカバだ。川を渡ると、道は2本に分かれる。左の道はローデシア国境に通じている。だが、国境は閉鎖されているので、ローデシアに入ることはできない。右の道はビクトリアの滝に近いリビングストンの町に通じている。

 この分岐を右へ。マザブカ、モンゼと過ぎたところで左に折れ、カリバ湖畔のシナゾングウェに通じる道に入っていく。その途中にあるバッチマンさんらの宿舎の建つキャンプ地に着いた。夕食までの間、キャンプ地周辺をプラプラ歩いた。

 夕食時がおもしろかった。

 食卓にはザンビア製のパン、ソ連製のサディーンの缶詰、中国製のコンビーフの缶詰、ケニア製のバター、ケニア製のチーズ、イギリス製のマーマレードがのっている。バッチマンさんは「これがザンビアなんですよ。世界にせっせと銅を売って、そして食料を買っているんです。国はもっと真剣に食料の増産を考えなくては」という。食後のお茶はマラウィ製、コンデンスミルクはドイツ製、砂糖はザンビア製だった。

大人造湖のカリバ湖

 次の日はバッチマンさんとカリバ湖に行った。湖畔のシナゾングウェまでは前の晩の降った雨で、ひどい悪路に変わっていた。川の水はあふれ、あちこちに大きな水溜まりができていた。北のタンザニアからケニア、エチオピアにかけては大旱魃だというのに、そのすぐ南のザンビアは、例年以上に雨が多いという。

 湖の見えるところに出た。雨雲が垂れ込めていることもあって、対岸のローデシアは見えない。ザンベジ川のカリバダムによってできたカリバ湖は、ナイル川のアスワンハイダムのナセル湖、ボルタ川のアコソンボダムのボルタ湖と並ぶアフリカの3大人造湖で、長さが320キロ、幅が4、50キロもある。

 1968年の「アフリカ大陸縦断」では、ローデシア側から乾期のカリバ湖を見たが、日本の冬枯れのような風景の林の中を抜け出ると、突然、目の前にはブルーの湖面が広がっていた。目のさめるようなカリバ湖の青さだった。それが今回、ザンビア側から雨期のカリバ湖を見たわけだが、すべてが灰色一色に覆われていた。乾期のカリバ湖とは、まるで違う湖の風景だった。

ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
ドイツ人のバッチマンさん一家とカリバ湖へ
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖
大人造湖のカリバ湖
福本さんと村井さんの日本人カップル

 もうひと晩、バッチマンさんの家で泊めてもらった。バッチマンさんは日本のことをよく知っている。日本の歴史も勉強している。話が太平洋戦争に及ぶと、「日本軍の大陸侵攻から日本の敗戦までというのは、しょせん、日本の経済界に踊らされた結果でしかない。あの戦争は経済戦争。膨脹しすぎた日本経済が資源確保と市場の拡大に目の色を変えたからだ」と手厳しい。

 次の日、バッチマンさんのトヨタでルサカとリビングストンを結ぶ幹線ルート上のチョマの町まで乗せていってもらった。チョマの町中でバッチマンさん一家と別れた。奥さんもわざわざカオリナちゃんと一緒に見送りにきてくれた。

 チョマからはリビングストンに向かった。その間、190キロ。ヒッチハイクをはじめてすぐに、隣り町のカロモまで行くダットサンのピックアップに乗せてもらった。カロモから1時間ぐらい歩いただろうか、フォルクスワーゲンのビートルが止まってくれた。なんと驚いたことに、日本人の男女が乗っていた。後の座席には荷物をいっぱい詰め込んであるので、乗せてもらえるとは思わなかった。それなのに2人は荷物を無理矢理、片側に寄せ、1人がやっと座れるくらいのスペースをつくってくれた。男の人は福本義憲さん、女の人は村井マナさん。2人はビクトリアの滝まで行くところだった。2人は何ヵ月もかけてドイツを出発点にし、アフリカ大陸を縦断してここまでやってきた。

福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル
福本さん、村井さんのカップル
ワーゲンでのアフリカ大陸縦断

 福本さんも村井さんもドイツ語を勉強していたが、2人でアフリカ縦断を思い立ち、フォルクスワーゲンの中古車を買って旅立った。西ドイツのボンを出発し、ヨーロッパを南下し、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸へ。アルジェリアのアルジェからサハラ砂漠を越え、西アフリカからは赤道アフリカを横断して東アフリカに入り、ケニアのナイロビでしばらく滞在したという。

 途中、いろいろなことがあった。アルジェでは窓を割られ、荷物をゴッソリと盗まれた。カメラ、双眼鏡、衣類、本…と。腹が立つやら情けないやらで、ショックのため一時は旅するのをやめようと思ったほど。それを乗りこえてサハラ砂漠を縦断した。サハラ砂漠では深い砂との戦いの連続で、1人が車を運転し、1人が車を押した。ナイジェリアとカメルーンの国境では役人と大喧嘩し、ザイールの悪路では車が故障し、車輪がガタガタになってしまう。

 ルアンダのキガリではまたしても盗難にあった。そのときは命の次に大事な旅日記を盗まれた。ウガンダに入国しようとしたら、国境で30人ほどのイギリス人旅行団が逮捕されたというニュースを聞き、ウガンダを諦め、タンザニアに入国した。ケニアのナイロビでは村井さんがマラリアにかかり、入院。1日に150シリング(約6000円)も取られた。2人の旅は苦難の連続だったが、2人はそんな苦しかった体験を楽しそうに話してくれる。2人にとってアフリカがそれだけ魅力のある世界だったからだろう。

世界の大滝、ビクトリアの滝

 車の中で2人と話しているうちに、リビングストンに着いた。この町は探検家デビッド・リビングストンにちなんで名づけられた。ザンビアでは英語名の地名がどんどん変えられた。たとえばフォート・ジェームソンがチパタ、アバコーンがンバラ、ブロークンヒルがカブエという具合だ。その中にあって、リビングストンの名前だけは残された。政府が探検家リビングストンの業績を評価しているからだろう。

 リビングストンは人口が5万5000人。ザンビアでは3番目に大きな町だ。それとともに古い町でもある。1907年にはノース・ウエスタン・ローデシアの首都になった。1911年、ノース・ウエスタン・ローデシアとノース・イースタン・ローデシアが合併し、ノースローデシア(北ローデシア)になったときも、リビングストンが首都だった。

 ビクトリアの滝はリビングストンの町から南に10キロほど行ったところにある。福本さん、村井さんと一緒にビクトリアの滝へ。耳をつんざくような轟音。我々は滝の水しぶきでびしょ濡れになって歩いた。

 ビクトリアの滝をはさんでザンビアとローデシアは接している。ビクトリアの滝はローデシア側の方がザンベジ川の本流が流れているので、はるかに規模は大きい。ザンビア側は水量が少ないので、雨期に見るのに限るという。その意味では、ちょうどいい時期だ。反対にローデシア側は水量の減る乾期の方がよく見えるという。1968年の「アフリカ大陸縦断」のときには、ローデシア側で乾期のビクトリアの滝を見た。ぼくはこの滝を両側から、ローデシア側では乾期に、ザンビア側では雨期にと、それぞれ滝を見るのには一番いい時期に見ることができた。

 ザンビアからローデシアに通じる鉄道は、滝のすぐ下、ザンベジ川の幅狭い谷間を通っている。「あれ!」と目を疑ったのは、鉄橋の上に長い編成の貨物列車が止まっていたからだ。国境閉鎖にともない、ザンビアとローデシア間の鉄道も全面的に止められていたからだ。ところが、ザイールのルブンバシを中心とするカタンガ州から送られてくる鉱物資源に限り、ザンビア政府は列車の通過を認めているという。

リビングストンの「リビングストン・メモリアル」
リビングストンの「リビングストン・メモリアル」
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ビクトリアの滝
ザンビア、ローデシア国境のザンベジ川にかかる鉄橋
ザンビア、ローデシア国境のザンベジ川にかかる鉄橋
カズングラの4国国境

 ビクトリアの滝からリビングストンに戻る。福本さん、村井さんの2人は、リビングストンから国境のカズングラまで行き、ボツワナに入るという。ぼくもカズングラまで乗せていってもらうことにした。

 リビングストンから50キロほど西、ザンベジ川の上流に向かって走ったところがカズングラ。カズングラまでの道は全線が舗装されている。カズングラにはザンビア側の国境事務所とフェリー乗り場があるだけ。この地点で4つの国が接している。ザンベジ川対岸の正面がボツワナ、右側が南西アフリカ、左側がローデシアだ。

 福本さんと村井さんは出国手つづきをすませると、ザンベジ川のフェリーに車をのせた。お互いに元気な旅をつづけられるように祈って2人と別れた。2人のワーゲンをのせたフェリーはカズングラのフェリー乗り場を離れると、ゆっくりとザンベジ川を横切り、対岸のボツワナに向かっていった。2人はボツワナからローデシアを通って南アフリカに入り、アフリカ南端のケープタウンに向かっていく。

リビングストンからカズングラに通じる道
リビングストンからカズングラに通じる道
ルサカに戻る

 カズングラからリビングストンに戻ったのは夕方になってから。パンを買おうとしたのだが、どこにも売ってない。パン屋のみならず、食堂やレストラン、ホテルとまわったが、ついにパンを手に入れることができなかった。ザンビアは小麦粉不足がひどく、リビングストンの場合だと、朝の5時とか6時といったパンが焼き上がる時間にパン屋に並ばないと、パンは手に入らないといわれた。そのほかサラダ油と石鹸の品不足がひどい状態だという。結局、夕食を抜いて、夜のヒッチハイクでルサカに戻ることにした。

 リビングストンからカリバ湖近くにあるマーンバ炭鉱まで行く車に乗せてもらい、途中、チョンベとペンバの間にあるバトカで降ろしてもらう。マーンバ炭鉱への道はこのバトカで「ルサカーリビングストン」間の幹線道路を外れる。

 バトカの道路沿いに小学校があり、そこでひと晩、寝かせてもらった。床の上にシュラフを敷いて寝ようとするのだが、腹がペコペコでなかなか寝つけない。なんとも寝苦しい夜になった。次の日も空腹のせいで体に力が入らなかったが、そんな体にムチを入れてヒッチハイクをつづけ、どうにかこうにかルサカに戻ることができた。ルサカに着くなり、露店でポテトチップスとサンドイッチ、マンゴーを食べ、やっとひと息ついた。

 そのあとでドイツ人の農業技術者、ブルンスさんのところに電話した。ブルンスさんには、ルサカに戻ってきたら電話するようにといわれていたからだ。ブルンスさんはミニストリー・オフ・ルーラル・ディベロップメントという役所に属している。日本語に訳せば地方開発省とでもいうのだろうか。午後、役所を訪ねると、ブルンスさんは仕事を早々に切り上げ、車でルサカ郊外のお宅まで連れていってくれた。奥さんと4人の子供たちは家にいた。長男のエルク、次男のタンモ、長女のアンニャ、次女のハイレとはすでに仲よしになっていたので、なんともうれしい再会。日暮れまでは隣りのサワさんの家に行き、お互いの旅の体験談を語り合った。

 ブルンスさんの家に戻ると、ブルンスさん一家と一緒に夕食をいただく。夕食後はブルンスさんの家にやってきた同じ仕事をしているドイツ人やミニストリー・オフ・ルーラル・ディベロップメントの高級官僚たちと一緒にワインを飲んだ。

 ブルンスさんもすばらしい人だったが、奥さんもじつにすばらしい人。インドにいたときはインドの生活に適応し、ザンビアに来たら今度はザンビアの生活を楽しんでいる。4人の母親とは思えないような溌剌とした若さ、清々しさがあった。タンザニア国境近くからルサカまでブルンスさんに乗せてもらったというだけで、ぼくはまるで家族の一員であるかのような暖かなもてなしを受けたのだ。

ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ルサカの中心街
ドイツ人のブルンスさん一家
ドイツ人のブルンスさん一家