[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 10 スワコップムンド[南西アフリカ] → スプリングス[南アフリカ]
南アフリカ領のウオルビスベイ
スワコップムンドからは海沿いの道でウオルビスベイに向かう。その間は40キロほど。ナミブ砂漠が海に迫り、きれいな砂丘群が道路沿いに連続する。ウオルビスベイは南アフリカ領。南アフリカ領とはいっても、国境のオレンジ川を渡ったときと同じように、チェックポストもなく、気がつかないままにウオルビスベイの町に入った。
ウオルビスベイとその周辺は1878年にイギリスに占領された。ウオルビスベイは天然の良港で、イギリスやオランダ、アメリカの捕鯨基地になっていた。1883年にはドイツの貿易商ルーデリッツが南西アフリカの海岸一帯を手に入れ、その翌年にはウオルビスベイとその周辺を除いて南西アフリカはドイツ領になった。第1次大戦中の1915年には南アフリカ軍が南西アフリカ全土を掌握し、1920年には南アフリカの委任統治領になったが、ウオルビスベイとその周辺はイギリスのあとをついだ南アフリカ領(ケープ州の一部)のまま今に至っている。そんな歴史を持つウオルビスベイの町をひとまわりし、スワコップムンドに戻った。
スワコップムンドからは首都のウインドフックに向かう。海岸沿いのナミブ砂漠から中央の高原地帯へと入っていく。前方には真っ黒な雨雲が横たわっている。すでに夕暮れが間近。雨に濡れるのも嫌だったので、雨雲に突入する前に、ウオルビスベイとウインドフックを結ぶ鉄道の小さな駅でバイクを停めた。駅員もいない駅舎内にシュラフを敷いて早々と寝た。夜中になると激しい雨になり、すさまじい雨の音で目をさました。
この駅で寝ていたのはぼくだけではなく、もう1人、黒人の青年がいた。ダマラ族の青年で、翌朝、彼はウインドフックまでバイクの後ろに乗せてくれないかという。何度も「頼むよ!」といわれ、「よし、わかった」と、彼をリアに積んだ荷物の上に座らせ、ウインドフックに向かった。
彼はGT550のスピードがよっぽど怖かったのだろう、ぼくにしがみついてくる。ウサコス、カリビブと通り、オカハンジョで北に通じる幹線道路と合流し、ウインドフックに到着。町の中心で彼を下ろしたが、ホッとした表情を顔に浮かべていた。
突然、有名人になる!
ウインドフックに到着すると、バルスワモータースを訪ね、修理工場でバイクの整備をさせてもらった。それが終わると、しばらくバイクをあずかってもらい、町を歩いた。するとなんとも驚いたことに、「新聞、読みましたよ。がんばって下さいね」と、何人もの人たちに声をかけられた。
昼食はすこし贅沢しようと、レストランに入り、ステーキを食べた。ぶ厚いステーキに大満足し、1ラント30セントの食事代を払って店を出ようとすると、なんと白人の店の主人は「いいから」といって受け取らない。「キミのことは新聞で読んだよ。私もバイクが大好きでね。できることならキミと一緒にバイクで旅したいよ」と笑いながらいった。
午後になってバルスワモータースに戻ると、トールさんというドイツ人の婦人がぼくを待っていた。南西アフリカで生まれた人なので、ドイツ系南西アフリカ人というべきなのだろう。彼女は日本人の若い女性と文通しているという。
「ぜひとも家に来て、お茶でも飲んでいって下さい」
といわれ、彼女の車に乗って家まで行った。
トールさんには4人の男の子と3人の女の子がいる。居間にはなんとヒットラーの肖像画がかかっていた。文通しているのは多治見の女性で「トキ・ヨーコ」さん。トールさんは二言目には「ヨーコ」、「ヨーコ」で、大変だ。「マイ・リトルガールのヨーコは…」といった具合で、この1年あまりの間にヨーコさんとの間でやりとりした手紙の束を見せてくれた。
トールさんは何日か前にウオルビスベイに行ったそうで、港で日本の漁船を見かけ、うれしくなって訪ねたという。漁船員たちも大歓迎してくれ、ずいぶんと楽しい時間を過ごせたという。多治見のヨーコさんのおかげで、大の日本びいきになったトールさん。ぼくのことは新聞の記事で知った。バルスワモータースには、ぼくがウインドフックに戻ったら、ぜひとも連絡して欲しいといってあったそうだ。
トールさんにバルスワモータースまで送ってもらうと、その日の夕方、ウインドフックを離れた。ほんとうはもう1日ぐらい、ウインドフックに滞在したかったのだが(バルスワモータースのみなさんにも、そういわれてひきとめられたのだが)、ある日、突然といった感じでこの町の有名人になってしまい、なんとも居ずらくなってしまった。
「有名人って、大変なんだなあ…」
ウインドフックからは東のゴバビスを通ってボツワナに入り、カラハリ砂漠を横断して南アフリカのヨハネスバーグに戻りたかった。だが、ボツワナのビザを取れなかったのだから諦めるしかない。「また、別の機会にボツワナに行こう。そのときにはカラハリ砂漠を走ろう」
と自分にいい聞かせ、来たときと同じ道を今度は南下した。マリエンタール、キートマンスホープと通り、グルノウへ。そこからは西へ。カラスバーグから国境近くのアリアムスブレイの町を通り、南アフリカに入った。といっても、いつ国境を越えたのか、まったくわからないうちに南アフリカに入っていた。
「とっとと出ていけ!」
南アフリカに入って最初の大きな町がオレンジ川の河畔のウーピントン。ちょうど昼時で、日差しが強かった。すぐ北に広がるカラハリ砂漠からは乾いた熱風が吹きつけていた。町をひとまわりしたところで、目抜き通りにあるレストランに入った。するとテーブルに座るか座らないうちに、つかつかっと寄ってきた白人の客に、「ここはホワイト・オンリーだ。とっとと出ていけ!」
とケンカ腰で怒鳴られた。
「レストランはレストランだろ。腹がへっているのに、ホワイトもノンホワイトもあるものか」
「ノンホワイトのレストランは別にある。そっちに行け!」
「あんたに命令させれるおぼえはない」
出ていけ、出ていかないの押し問答がしばらくつづいた。店の主人やほかの客たちは、黙って成り行きを見守っている。
ぼくは最初こそカーッとなったが、次第に冷静さを取り戻し、それをいうのはすごく抵抗を感じたが、「自分は日本人だ」といった。その結果がどうなるのか、わかっていながら…。
白人の男は急に態度を変えた。
「悪かった。知らなかったこととはいえ、許して欲しい。私は仕事で何度も日本人には会っているが、キミは色が黒いので、まさか日本人だとは思わなかった」
彼はさらに、興味深いことをいった。
「日本人とポルトガル人だけは例外で、ヨーロピアンなんだ」
ヨーロピアンといっても、ヨーロッパ人だけではない。アメリカ人やカナダ人、オーストラリア人をも含む言葉で、つまり「白人」と同意語で使っている。彼はポルトガル人も例外でヨーロピアンだといったが、裏を返せば、ポルトガル人は白人には入らないと思っているのだろう。
その人はビルホーエンさんという40代の人で、ぼくが日本人だとわかってからというもの、うってかわって愛想がよくなった。
「おわびのしるしに、好きなもの何でも食べなさい。さー、一緒に食事をしよう」
といってぼくにメニューを手渡すと、ひとりでしゃべりまくった。
「日本はたいした国だ。今、私が乗っている車はトヨタだ。ついこのあいだのクリスマスには、妻にマツダを買ってあげたよ。ロータリーエンジンの車だ。彼女はとっても喜んでいる。すばらしい車だといっている。私はマンガン鉱山に勤めているが、日本は一番のお得意さん。それで会社にやってくる日本人ともよく会うのだよ。私もそのうち日本に行くようになると思う」
「そうだ、キミはいつも首にパスポートをぶらさげていたらいい。私は日本人ですってね。そうすれば間違えられることもない」
ダイヤモンドの町
ウーピントンからキンバレーに行った。ここはまさに「ダイヤモンドの町」。1866年に子供がおもちゃがわりに持っていた石ころが大粒のダイヤだとわかって以来、大勢の人たちがダイヤを求めて殺到した。初期のダイヤモンド採りは川床の土砂をふるい取っていたという。1万人もの「川掘師」が集まり、ゴールドラッシュならぬダイヤモンドラッシュでキンバレーの町ができあがった。
その後は大規模な機械を使って、ダイヤモンドを探し求めて地中深く掘るようになったが、その結果できたのが「ビッグホール」だ。現在では観光地にもなっている「ビッグホール」はまさに人間がダイヤモンドにとりつかれた夢の跡。人間がつくり出した穴としては、世界でも最大級のものだという。
ビッグホールを見ていると、とても人間がつくり出したものとは思えない。のぞきこむと、目がくらむような穴の底には、緑がかった水が満々とたたえられている。周囲1600メートル、直径450メートル、深さ360メートルのビッグホールの最深部はなんと1200メートルにも達するという。最初は露天堀りだったのが、後に坑道が掘られた。1914年8月に閉山するまでに、ここからは約1500万カラット(約3トン)のダイヤモンドが掘り出されたという。
南アフリカはザイール、ソ連に次いで世界第3位のダイヤモンド生産国だが、ザイール、ソ連産ダイヤの大半は工業用で、宝石用となると南アフリカが断トツで世界一になる。キンバレーは昔も今もその中心なのだ。
ビッグホールは「ダイヤモンド博物館」ともいえる博物館の敷地内にある。世界の宝石用ダイヤモンドを牛耳るド・ビーア社のもので、当時のダイヤモンド商店や酒場、キンバレーで一番古いといわれる家などが再現されている。そこで目を引いたのは、ダイヤモンドで財をなしたセシル・ローズ専用の客車。それを見るとローズの力がいかにすごいものだったのかがうかがい知れた。
セシル・ローズは南部アフリカの近代史においては、欠くことのできない人物だ。ローズは1870年に南アフリカに渡り、ダイヤモンドの独占に成功。さらに産金事業にも進出し、新聞、電信、鉄道をも傘下におさめ、1890年代の南アフリカ経済を牛耳った。その勢いでもって政界にも進出し、中央アフリカ(南アフリカに隣接した北の地域)の統治権をイギリスから獲得した。ローズは自分の名前にちなんで中央アフリカをローデシアと名づけたのだ。
ローズは1902年に死んだが、彼の墓はローデシア南部の中心都市、ブラワーヨの郊外にある。マトポス・ナショナルパークのすぐそばにあるとのことで、それは巨大な墓だという。一代の風雲児、「怪物ローズ」の眠る地を見てみたいものである。
オレンジ自由州の州都
キンバレーを出発。ブルームフォンテインに向かう。キンバレーの町を出ると、すぐに州境になり、ケープ州からオレンジ自由州に入る。ボショフという小さな町で食料を買い込み、郊外の広々とした平原で夕食を食べ、そこで野宿した。きれいな夕焼けだったが、すっかり暗くなるころから東の空に稲妻が光り、やがて雷鳴も聞こえてくるようになる。雨が気になって夜中に何度か目をさましたが、幸いなことに雨が降ることもなく、夜が明けるまで寝ることができた。
オレンジ自由州の州都、ブルームフォンテインに到着。整然とした、きれいな町並み。南アフリカの最高裁判所はこの町にある。南アフリカはおもしろい国だが、行政府はトランスバール州のプレトリアにあり、国会はケープ州のケープタウンにあり、最高裁判所はオレンジ自由州のブルームフォンテインにあるのだ。さらにいえば、経済の中心地はトランスバール州のヨハネスバーグ。世界でもこのような国の例はほかにない。
クリフとの出会い
ブルームフォンテインからは南アフリカを南北に縦貫するN1(国道1号)を北へ。ブルームフォンテインではよく晴れていたが、北に行くにつれて空は黒雲に覆われる。強風が吹き荒れ、稲妻が光り、雷鳴が聞こえるるようになる。雷がN1のすぐ近くに落ちたときは、腹の底にズシーンと響くようなすさまじさだった。
やがて雨の中に突入した。恐怖を感じるような豪雨。「バケツをひっくり返した」といった生やさしい降り方ではない。「風呂桶をひっくり返した」ぐらいのすごさだった。みるみるうちに道路には水が溜まり、ちょっと坂になったところでは、濁流がうず巻いていた。
前方に警察のパトカーが2台、道をふさぐようにして停まっていた。豪雨で視界がきわめて悪かったので、あやうくそれに突っ込むところだった。雷が落ち、大木がまっ二つに裂け、道路上に倒れていた。大木は黒こげになっている。この雷が自分のバイクに落ちなくてよかった…と、胸をなで下ろした。
やっと雷雲を抜け出ることができた。雨具を着ていたが、何の役にもたたなかった。びしょ濡れだ。まるで服を着たまま泳いだようなもの。ベンテスバーグを過ぎたところでバイクを停める。そこで着替えをしてひと息入れた。
そのとき車が停まり、降りてきた若者にGT550についていろいろ聞かれた。それがバイク大好きなクリフとの出会いだった。
「あそこに見えるこんもりとした森のあるところがウチなんだ。よかったら来ないか」
とクリフにいわれ、彼の家に行った。クリフは大農場の息子だった。トウモロコシ畑が見渡すかぎり広がっている。彼はよっぽど機械が好きだとみえて、自分で改造したという車やバイクを見せてくれた。
その夜はクリフの家で泊めてもらった。夕食にはたいそうなご馳走をいただいた。翌朝クリフは刑務所に行くというので、興味をそそられ、一緒に行った。囚人を何人かかりるのだという。
その刑務所はベンテスバーグの町外れにあった。囚人は黒人ばかり。クリフは24人の囚人を借りた。農作業に使うのだという。3日間借りて、24人の囚人の使用料はわずかに20ラント。日本円にしたら1万円にもならない…。クリフは24人の囚人をトラックの荷台にのせ、農場に戻った。
「南部アフリカ一周」、終了!
クリフに別れを告げ、N1(国道1号)を北へ、「南部アフリカ一周」のゴールのヨハネスバーグに向かう。あいにくの曇り空。今にも雨が降りそうだ。クルーンスタッド、パリスと通ってバール川を渡り、トランスバール州に入ると、じきにヨハネスバーグに到着。雨が降りだし、あっというまに前日と同じように激しい雨になった。まだ昼前だというのに、まるで夕暮れのように暗かった。
最後にヨハネスバーグから北に60キロのプレトリアまで行くつもりにしていた。だが雨があまりにも激しいので、プレトリアに行くのを断念し、ヨハネスバーグの中心街から郊外のスプリングスの町へ。スズキの総代理店に戻ると、チーフマネージャーのイチコビッチさんやアクレスさん、メカニックのアルフらが、
「よくぞ、無事に帰ってきた!」
といって大喜びしてくれた。
1万0117キロ走ってのスプリングス到着。GT550はノントラブルで「南部アフリカ一周」を完璧に走り通してくれた。GT550のキーを返すときは、胸がキューンと締めつけられるような寂しさを感じた。
みなさんには駅近くのステーキハウスに連れていってもらった。ワインで乾杯! そのあとは、ぶ厚いステーキをいただいた。ステーキをかみしめながら、あらためて「南部アフリカ一周」の旅が終わったことを実感するのだった。