[1973年 – 1974年]
オーストラリア編 08 パース → パース
恐怖の山火事
「モトロック社」のみなさんの見送りを受けて、パースを出発。タイヤもチェーンも新品になり、エンジンも整備してもらったので、ハスラーは生き返ったようだ。
パースからは一番南側のルートの国道1号を行く。ピンジャーラ、バンベリー、ブリッジタウンと町が連続し、豊かな農地が国道沿いに見られた。かなりの交通量。だが、マンジマップの町を過ぎると、森林地帯に入り、車もほとんど通らなくなる。おまけに猛烈な山火事に遭遇。身震いするほどの炎と煙。一か八かの勝負で突っ走る。山火事に追われたカンガルーが道に飛び出し、あやうく激突しそうになる。広大なエリアを燃やし尽くした山火事地帯を走り抜け、サザンオーシャンに面したワルポールの町に着いたときは心底、「助かった!」と思った。
その夜は国道沿いで寝たが、きつい寒さでガタガタ震えた。北の暑さが思わずなつかしくなってくる。ぼくのバイクを見て、1台の車が停まってくれた。近くの製材所の車で、ありがたいことに製材所の宿舎で泊めさせてもらった。おかげで寒さから解放され、朝までぐっすりと寝られた。ほんとうに助かった!
イギリス人のジョン
サザンオーシャンに面したアルバニーを過ぎると、町と町の間隔がグッと長くなる。森林地帯から羊を飼う広大な牧場の風景に変わる。そんな道を走りつづけ、国道沿いにハスラーを停め、昼食のパンをかじっていたときのこと。1台のバイクが停まった。それはハスラー250の弟分のハスラー125だった。イギリス人のジョン。彼はなんとイギリスから4ヵ月をかけててここまでやってきた。
ジョンとしばらく一緒に走る。南から吹きつけてくる風が冷たい。身を切られるような冷たさだ。
エスペランスの町で缶ビールやソーセージ、タマゴ、野菜類などを買い、ノーズマンの近くでジョンと一緒に野宿した。たき木を集めて火をおこし、まずは缶ビールで乾杯!
スープをつくり、たまごを焼き、ソーセージをゆで…と、楽しい夕食だ。食後のジョンの入れてくれたコーヒーを飲みながらお互いの旅の話をした。
翌朝、ノーズマンに着いたところでジョンと別れた。彼はそのまま国道1号でナラボー平原を横断し、ポートオーガスタに向かった。ぼくはといえばノーズマンの金鉱やカンバローラのニッケル鉱、カルグーリーの金鉱など鉱山めぐりをした。それらの鉱山を一日かけてめぐり、ノーズマンに戻ってきたのは日が暮れてからだった。
「旅は道連れ!」
ノーズマンからはナイトラン。途中のパーキングエリアで寝る。ところが真夜中に雨。泣けてくる。大急ぎでシュラフをたたみ、バラドニアまで走る。バラドニアに着くと、モービルのガソリンスタンドの屋根の下で寝かせてもらった。屋根のありがたさをここでも実感する。
夜明けともに走り出し、次のストップポイント、ジョンエアーのBPのガソリンスタンドで給油。そこへ1台のBMWがやってきた。マークとコレアのカップル。2人は昨夜、ジョンと一緒にキャンプしたという。ぼくはジョンに気がつかないまま、彼を追い抜いていたのだ。
しばらく待つとハスラー125のジョンがやてきた。
「旅は道連れ!」
ここからは3台のバイクで一緒に走った。南から吹きつけてくる風が恐ろしく冷たい。夕方、南オーストラリア州との境のユークラに到着。そこでは我々とは反対にシドニーからパースに向かうハスラー400に乗るトニーに会った。ハスラーの125、250、400と3車種全部がそろった!
これがライダー同士の連帯感というもの、5人で一緒にキャラバンパークでキャンプしようということになった。その夜の盛り上がったことといったらない。キャラバンパーク内のバーで我々はビールをガンガン飲み、空きビンがあっというまにズラリと並んだ。
翌朝、我々は東へ、トニーは西へ。南オーストラリア州に入ると、ダートに変わった。クーナルダで給油。そこは国道1号から北に1キロほど行ったところで、ガソリンスタンドでは金網内でエミューを飼っていた。クーナルダの次はナラボーでの給油。我々は昼ごろに着き、給油を終えたあと、レストランでコーヒーを飲んだ。時間を聞いてびっくり。なんと4時5分前。西オーストラリアとは1時間30分もの時差があった。我々は「コーヒー1杯飲むのに何時間もかかってしまったねえ」と大笑い。ナンドルーを過ぎたところで日が暮れた。ブッシュキャンプだ。火をおこし、飯を炊き、かんづめをおかずにして4人で一緒に食べた。
翌日の午前中にセドゥナに到着。ナラボー平原を横断して最初にたどり着く町。町の手前で舗装路に変わった。ここでジョンとマーク&コレアのカップルと別れた。3人はそのまま国道1号を行き、ぼくはポートリンカーン経由の海沿いのルートでポートオーガスタに向かった。
南アのビザが取れた!
ポートオーガスタからは国道1号でアデレードを通り、メルボルンへ。メルボルンからは国道31号経由でキャンベラへ。キャンベラに到着すると、すぐさま南アフリカ大使館に駆けつけた。
ガックリ…。
まだ本国からの返事はきていない。
その日は金曜日。キャンベラからスノーウィーマウンテンスに行き、火曜日にキャンベラに戻ることにした。
キャンベラのユースホステルに泊まる。ワーデンのレーブンさんとの再会。スープをつくり、スパゲティーをつくりと、いつもよりもちょっと豪華な夕食にした。
気持ちがおさまったところで、これから先のことを考えた。このまますんなり南アフリカのビザが取れたら、パースから飛行機で南アフリカのヨハネスバーグに飛び、アフリカ大陸を北上するつもりにしていたが、もし取れなかった場合はやはりパースまで行き、フリーマントルから船でシンガポールに渡り、マレーシアのペナンから船でインドのマドラスに渡り、西アジア経由でヨーロッパへ、そしてアフリカ大陸を一周しようと決めた。そう決めたとたんに気持ちが楽になる。
旅の途中で困ったら、いつもよりすこし豪華なものを食べるに限る。
翌日はキャンベラからクーマへ。この町がスノーウィ・マウンテンスの玄関口。日本でいえば松本のようなところだ。クーマからジンダバインに行き、クシオスコ・ナショナルパークに入っていく。オーストラリアの最高峰、クシオスコ山の山頂直下までバイクで行ける。駐車場にハスラーを停め、そこから徒歩10分で標高2230メートルの山頂に立った。スノーウィー・マウンテンスの名前どおり、山頂周辺の雪の輝きがまぶしい。
ジンダバインに戻ると、その夜はギーのユースホステルに泊まった。ここまでの道は石ころのゴロゴロしたけっこうハードなダート。ユースホステルは山小屋風の建物。
ギーのユースホステルにはワーデンはいない。宿泊費の50セントはビンの中に入れるようになっていた。ここには先客がいた。アメリカ人のマイケルとアイルランド人のトム、それとニュージーランドから来たジュリーとティーンの女性2人。山奥の小さなユースホステルなので、我々はずっと以前からの知り合いだったかのように、すぐに仲良くなった。みんなで一緒になって夕食をつくる。トムの持ってきたオーストラリアン・ワインで乾杯!
ジュリーとティーンのつくってくれたニュージーランド風野菜スープをもらう。メインディッシュはマイケルの釣り上げた渓流魚のフライだ。赤々と燃える暖炉の前で食べる夕食は格別。カンガルーが窓のすぐ近くまでやってくる。外は満天の星空。夕食後、マイケルがギターをひく。それに合わせてジュリーがきれいな声で歌ってくれた。
翌日も、翌々日も同じメンバーでギーのユースホステルに泊まった。
3日泊まったギーのユースホステルを離れるときは、ちょっぴり寂しかった。アメリカのテキサスから来たマイケルはもう何日か、ここに泊まるという。トムとジュリー、ティーンはスノーウィー・マウンテンスのトレッキングをするという。ぼくはクーマへと下った。
クーマからキャンベラへ。キャンベラには昼前に到着。すぐさま南アフリカの大使館に直行。なんともうれしいことに、本国からの返事が来ていてついに南アのビザがとれた。うしかった。これで予定どおりの旅がつづけられる。すっかり顔なじみになった書記官のマクラックさんも一緒になって喜んでくれた。
バイク編「オーストラリア一周」終了!
キャンベラを出発。いよいよ、バイクでの「オーストラリア一周」、最後の行程だ。
つい今しがた走った道をクーマまで引き返し、国道23号、18号経由で海沿いの国道1号に出る。ベガのテイクアウエーの店でフィッシュ&チップスを買って食べ、ナルーマ、モルヤと通り、シドニーに向かう。天気が崩れ、雨が降りだす。日が暮れ、ミルトンの町に着くと、アンポールのガソリンスタンドの屋根下で寝た。バイクでの「オーストラリア一周」最後の夜は、寒さと国道を疾走する大型トラックの轟音で、あまりよく眠れなかった。
翌日も雨。
雨に降られながらシドニーを目指して国道1号を走る。ウォロンゴンの町を過ぎたところで、やっと雨は上がった。シドニーまでもうひと息。そしてついに12月5日11時、1万6398キロを走ってシドニーのスズキの代理店「ハーゼル&ムーア社」に到着した。新聞とバイク誌の取材を受け、それが終わったところでハスラー250を返却した。
30日間のバイク編「オーストラリア一周」が終わった。胸の中にぽっかりと大きな穴があいたような気分だ。
パースへのヒッチハイク
「ハーゼル&ムーア社」のみなさんに別れを告げ、シドニーからヒッチハイクでパースに向かう。パースからは南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶのだ。
シドニー中央駅から電車でスプリングウッド駅まで行き、そこからヒッチハイクを開始。国道32号を歩きながらのヒッチハイクだ。だがなかなか車には乗せてもらえない。
突然、空が曇り出し、雷鳴、稲妻とともに激しい雨が降りだした。しばらく教会の屋根の下での雨宿り。雨がやんだところでヒッチハイクを再開し、カトゥーンバまで大工のフランクの車に乗せてもらった。彼は日本に2年近く滞在したことがある。ブルーマウンテンの岩峰の「スリー・シスターズ」や雄大な断崖を案内してもらい、その夜はフランクの家で泊めてもらった。
翌日は快調なヒッチ。カトゥーンバからブラックヒースまではトラックに乗せてもらった。そのあとバサーストまでは乗用車、オレンジまではトラック、オレンジの町中から郊外まではトライアンフに乗せてもらった。バイクに乗せてもらったのは初めての経験だ。
オレンジの町外れの木陰で昼寝し、目覚めると、なんともラッキーなことにポートオーガスタまで行く車に乗せてもらった。イタリア系オーストラリア人のアルフの車。アルフは船乗りをしていた。そのとき、何度か、日本にも行った。横浜、神戸、函館と日本の港はよかったと繰り返していう。
広大なオーストラリアの平原に落ちていく夕日を追うようにして突っ走る。100キロ以上の速度で真西に向かって走っているので、なかなか夕日は沈まなかったが、やがて大きな夕日が地平線に落ちていく。きれいな夕焼け。暗くなると、カンガルーが頻繁に国道に飛び出してくる。そのたびにひやっとさせられる。
真夜中に鉱山町のブロークンヒルを通り、ニューサウスウエルズ州からサウスオーストラリア州に入り、1時間ほど車の中で仮眠した。目をさましたときは、うっすらと東の空が白みはじめていた。
ポートオーガスタに着いたのは早朝。オレンジからポートオーガスタまで1160キロを乗せてもらった。アルフの家で朝食をご馳走になり、そのあとポートオーガスタの町外れまで連れていってもらった。
アルフは「日本にはまたいつの日か、行きたい。タカシ、今度は日本で会おう!」といってくれた。
ポートオーガスタではほとんど待たずに、またしてもイタリア系オーストラリア人のアジの車に乗せてもらった。それもすごくラッキーなのだが、パースまで行くところだった。フォード・ファルコンの新車で乗り心地満点。セドゥナを過ぎ、ダートに突入すると、すさまじい土煙りを巻き上げて走る。真夜中、サウスオーストラリア州からウエスタンオーストラリア州に入り、道が舗装路になると、「ピッチャマン! ピッチャマン!」(舗装だ、舗装だ!)と手をたたいて喜んだ。乗用車にとって長距離のダートはきつい。
ウエスタンオーストラリア州に入ったところで仮眠。夜が明けると、ナラボー平原を一気に走り抜け、その日の夜にはノーズマンに着いた。ノーズマンで仮眠したあと、パースまでは国道94号を走る。カルグーリーへの道との分岐点のクールガージーを通り、3日目の夕方、パースに到着。ポートオーガスタから2400キロを乗せてもらった。
その夜はパース郊外のアジの家で泊めてもらい、翌日、パースの中心街まで乗せてもらった。アルフといい、アジといい、たてつづけにイタリア系オーストラリア人にはほんとうにお世話になった。
さー、アフリカだ。
アフリカに渡るための行動開始。何軒もの旅行社をまわり、パースからヨハネスバーグまでの安チケットを探しまわる。夢はアフリカへと飛んでいく!